すこし毛色の変わった人との関わりあるいは評価をみてみます。
方技伝 第二十九 管輅伝には「管輅別伝」の引用が沢山ありますがこの中に何晏が出てきます。管輅は三国志演義ではまったくの易者ですが、正史の管輅伝では学としての易の専門家の側面をもった人物として書かれています。
その中で冀州刺史が、秀才に推挙され都に登ることになった管輅に忠告を与えます。
「使君言「(丁)[何]、鄧二尚書、有經國才略、於物理[無]不精也。何尚書神明精微、言皆巧妙、巧妙之志、殆破秋毫、君當慎之!自言不解易九 事、必當以相問。比至洛、宜善精其理也。」
今鷹真さんと小南一郎さんの訳(以下の訳はいずれも両氏のものです。)では
“刺史は言った。「何(何晏)、鄧(鄧颺)の二人の尚書は、国を治めていく才略をもたれ、物事の道理について精通されぬところとてない。とくに何尚書どのは、その心の働きは物事の精髄をきわめ、議論もつねに巧妙であって、その巧妙な論理でねらいをつけられたものは、秋の獣の毛の先ほどの小さいものでも、打ち破られるほどだ。あなたは慎重にふるまわれねばなるまい。「易」について九つのことが分からぬといっておられたから、きっとその事について尋ねられるに違いない。洛陽に着くまでに、「易」の道理についてよくきわめておくがよかろう。”
となっています。
冀州刺史は親切な人らしく、管輅が相手に評価され、よい地位につけるように忠告を与えています。そして、この刺史は何晏を高くかっていることが分かります。
これに対する管輅の回答の冒頭部分は以下の通りです。
「何若巧妙、以攻難之才、…」」
すなわち、
“何晏どのの議論が‘巧み’であるとすれば、それは相手の議論に対する論難の才能でもって、…”
とあります。これはそうとう厳しい見方ですね。今だってそういう人は世間にいます。
同じく管輅伝で、何晏は管輅に質問しています。一つ目は
「...知位當至三公不?」
です。
“...自分は三公(三公は司徒、司空、大尉で、位人臣を極める)になれるだろうか、”という甚だ俗世の欲望にとらわれた質問です。もう一つは
「連夢見、青蠅數十頭來在鼻上、驅之不肯去。有何意故?」
です。すなわち
“最近青蠅が鼻の頭にたかって追っても逃げて行かない夢をみるが何を意味しているか、”
です。なおこの時鄧颺も同席していることになっています。
この話は三国志演義にもあります。
演義、正史いずれにおいても、何晏は管輅に徳を積め、身を慎めと説教されます。
三国志演義では管輅の答に対し、二人は管輅を気違い扱いし、馬鹿にして終わります。
正史の管輅伝でも鄧颺は
「此、老生之常譚」
といっています。つまり
“そんなことは年寄のたちのいつもの言いぐさだ”
と蔑んでいます。しかしなぜか何晏は管輅に
「過歲、更當相見」
つまり“年が明けたらもう一度会おう”といっています。
この会見のあと舅氏(母の兄弟)にその話をしたら、舅氏は言い過ぎをおそれました。これに対して管輅は、
「與死人語、何所畏邪」
“死人と話しているのに、なにを畏れはばかることがありましょうや”
と言っています。実際年があけたら何晏はすぐに誅殺されてしまったのです。しかし、全く個人的な感触ですが、あとの舅の話のつけたしは、何晏、鄧颺が斬られたあとに作られた話かな、とも思ったりします。そうならば管輅は何晏に身を慎めと忠告しただけです。実際以下のような話も伝わっています。
今度は正史でなっくて、註にある「管輅別伝」の引用の中で、何晏は管輅に占ってもらい、身を慎めと言われたとき、
「晏謝之曰「知幾其神乎、古人以爲難。交疏而吐其誠、今人以爲難。今君一面而盡二難之道、可謂明德惟馨。詩不云乎、『中心藏之、何日忘之』!」
とあります。訳は
“何晏は謝してして言った、「ものごとの機微を知ること神のごとくであるというのは、古人も困難だとされた。深い交わりもない人に向かって、忌憚のない言葉を吐くことは、近ごろ人がなかなかやりにくいとすることだ。今あなたは一度面会しただけで、この二つの困難な道を立派にやってくれた。天の神にも通じる徳の香しさを持つということが出来よう。詩経にもいうではないか、「心からこれを良しとして、いずれの日に忘れることがあろうや―私はあなたの好意を忘れることがないだろう」と。”
ということです。ここでは何晏は随分紳士的です。
同じく管輅伝の「管輅別伝」の引用の中に郡太守劉邠(りゅうひん)が管輅と易について議論し、劉邠は
「數與何平叔論易及老、莊之道、至於精神遐流、與化周旋、清若金水、鬱若山林、非君侶也。」
と言っています。その訳は
“私はしばしば何平叔どのと易や老子・荘子の道理について議論したものだが、精神(こころ)が遥に遠くに遊び、万物の変化の根本と親しく交わり、清らかなことは金や水のごとく、こんもりしたさまは山林のごとくである点で、あなたは遠く何平叔どのをこえている”
郡太守は管輅を高く評価しましたが、何晏とも議論していることがわかります。
「管輅別伝」には、別の何晏についての印象の違う話がついています。
「裴冀州、何、鄧二尚書及鄉里劉太常、潁川兄弟、以輅稟受天才、明陰陽之道、吉凶之情、一得其源、遂涉其流、亦不爲難、常歸服之。輅自言與此五君共語使人精神清發、昏不暇寐。」
とあります。すなわち、
“裴冀州、何尚書(何晏)、鄧尚書(鄧颺)、劉太常、劉潁川の五人は、管輅は天からさずかった才能を身に受けて、陰陽の道や吉凶の事情にあきらかな者であるから、その源流を窮めさえすれば、その流れに遊ぶことも決して困難ではないと考え、常に心を寄せておられた。管輅自身も、次のようにいっていた。「この五人の人々と語ると、精神のまじり気のない活動がうながされ、夜も寝るいとまがない。」”
となっているのです。
ここでは管輅は何晏、鄧颺を人物と見ています。
「管輅別伝」に出てくるような、学問としての「易」が好きな人は何晏の俗悪性には目をつぶって、何晏を悪く思っていなかったのではないでしょうか。
自分の好悪から言えば、易経(高田真治さん、後藤基巳さんの訳)を読んでも深遠な意味などなく、単にわからない、というだけです。易を振り回した何晏も内容がない空疎なものを、あるようにごまかして、あるいは自分自身も誑かされているだけだったのではと思います。
儒教に詳しいわけではありませんが、儒教はようするに論語で、この内容については明確な議論ができると思います。しかし易経をありがたがるのは邪道と思います。(仮に孔子が易経を有難がったとしても、です。)
何晏は一方で世俗の欲にかられて、尊敬に値しない親分を担ぎ、軽蔑すべき子分どもと付き合いながら、一方で易経のような正体不明のわけのわからぬものを適当にひねくり回して深遠な議論をしているふりをし、中味のある人間のように振る舞っていただけではないでしょうか。
本気で論語だけを原則に身を処すならば、曹爽に諂って命を落とすこともなかったろうにと思います。
何晏を大儒として、人間を見直してみようと調べてみましたが、三国志演義で最初に感じた以上の人間像は出てきませんでした。
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