2013年8月5日月曜日

三国志、三国志演義 孔融(2)




孔融は当時の文学の中心にいました。建安の七子に数えられていますから、当時一流の文化人だったのです。

張紘(ちょうこう)伝(呉書 張厳程闞薛伝 第八)の註に、孔融が呉の張紘に送った手紙で、
「前勞手筆、多篆書。
とあります。小南さんの訳(呉書は小南一郎さんの訳を引いています。)では、
“わざわざご自筆の手紙をいただき、それも篆書でお書きいただきました。
とあります。張紘は呉から朝廷に使いしたときに引きとめられて官位をさずかり、孔融などとも交わりをむすぶようになっていました。当時の文化人が教養として篆書の読み書きができたことがわかります。また、その篆書で書くことが珍しいことであることもわかります。

話は飛びますが「古鼎録」によりますと、章武二年(222)劉備が漢鼎、受然鼎、剣山鼎を作ったとき、その銘文はすべて小篆で諸葛亮の筆跡であったそうです。

虞翻(ぐはん)伝(呉書 虞陸張駱陸吾朱伝 第十二)によれば
「翻、與少府孔融書、幷示以所著易注。融、答書曰「聞、延陵之理樂。覩吾子之治易、乃知、東南之美者、非徒會稽之竹箭也。又、觀象雲物、察應寒溫、原其禍福、與神合契。可謂、探賾窮通者也」」
とあります。訳によれば
“虞翻は、少府の孔融に手紙を送り、それといっしょに自分が著わした「易経」の注釈を進呈した。孔融はその返事の中で言った。「(春秋時代、呉の国の)延陵の季札が音楽に通じていたことは(かねて)聞き及んでおり、(今、また)あなたの「易経」研究の成果を拝見して、東南の地が生みだすすばらしいものが、会稽の竹や箭(しのだけ)だけにはとどまらぬことを知りました。それに加え、雲のありさまから未来への予兆を窺われれば、その洞察力は寒暑の移りゆきのごとく確かであり、禍福の原因をたずねられれば、神秘な存在と一分のすきもなく一体化しておられるなど、事物の深奥を探って道理を究めつくしておられると申せましょう。」”
となっています。当時の文化人のやりとりなのでしょうが、私には、孔融は易の文章のごとき訳のわからぬことを有難がり、本当は自分にとっても意味不明の言辞を弄しているように見えます。

また、孔融は人材を抜擢もしております。

後漢の大儒である鄭玄の子供は孔融の官吏になって、かれにより孝廉に推挙されています。孔融が包囲された時、彼のもとに駆けつけ(黄巾の)賊の手にかかって殺されたと「鄭玄別伝」に記述されています。

禰衡を薦めたことはすでに書きました通りです。孔融は歴史に残る名文で推薦したのです。
しかしこの禰衡は「平原禰衡伝」によれば、
「衡字正平、建安初、自荊州北游許都、恃才傲逸、臧否過差、見不如己者不與語、人皆以是憎之。」
で、井波さん・今鷹さんの訳によれば
“禰衡は字を正平という。建安の初年、荊州から北方許都に出向いたが、才能を鼻にかけて傲慢、他人への批判は度をこし、自分に及ばないものとは口をきかなかった。このため、人々はみな彼に憎しみを持った。”
という始末で、とんでもない男を推薦したものです。これははずれです。

魏書 袁張涼国田王邴管伝 第十一の中の王脩伝によれば初平年間(190-193)に王脩を孔融が召し出して主簿として高密県の県令とした、とあります。王脩は責任感も厚くかつ義理堅い男で、逆に孔融に困難がある場合には必ず駆けつけたようです。

同じく袁張涼田王邴管伝 第十一の邴原伝で、孔融は邴原を有道(官吏推挙の一科目)として推薦した、とあります。邴原も気骨のある人です。ただし邴原は何故か孔融の推挙を断っています。


呉書 劉繇太史慈士燮伝 第四によれば孔融は太史慈をなかなかの人物と考え、しばしば人を遣って彼の母親のご機嫌伺いをさせ、あわせて贈り物をしたそうです。そのため彼は孔融が黄巾の賊に包囲された時に駆けつけて夜陰に紛れて城内に行き、孔融が劉備の援軍を求めたいのを知って、使者を志願し、包囲を脱出して、劉備に救いを求めています。
 

一流の人と交際し、また優秀な人材を薦めようという気持ちは常にもっていた人のようです。

でも一族まとめて殺されたのも史実です。上記の振る舞いに留まる限りそんなにひどい目にあうことはない筈です。原因は別のところに求める必要があります。





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