2013年8月2日金曜日

三国志、三国志演義 孔融(1)



孔融は三国志演義には第十一回に初めて登場します。
曹操が徐州で父親を殺されたことを怒って軍を起こし徐州に攻め込みました。この時、徐州の太守である陶謙は北海の孔融と青州の田楷へ救援をもとめます。

そこで孔融が紹介され、孔子から二十世の子孫で、若いころより神童だった逸話が述べられます。

さて田楷の方は二つ返事で援軍をだしますが、孔融の方はお話になりません。ひとまず書面で仲介とか言います。使いのものがとても曹操に相手にされない、というのですが、孔融は軍勢を用意しつつ曹操あての手紙を出します。(この時点では孔融はまだ独立勢力でした。)そこへ黄巾の賊の残党が押し寄せてきて孔融の城は包囲されてしまいます。これに勝てなくて、自分が劉備に援軍を乞う始末です。
たよりない男として描かれています。

次に出てくるのは第二十三回で、曹操が劉備に負けた劉岱と王忠を斬らせようとしたところで、二人はもともと劉備の敵でないから、ととりなしています。
そして曹操が劉備を攻める件について、曹操にまだ冬で適当でなく、春になったら兵を動かすのがよく、まず張繡(ちょうしゅう)と劉表を味方につけよ、と進言しています。
このあたりは、一応まともな意見を吐く人間と扱われています。

この劉表への説得の使いについて、荀攸が劉表は名士が好きだから文筆の聞こえの高い人がよいので孔融がよいと曹操に提案し、それが認められます。そして荀攸が自分で孔融に頼みに行きました。すると孔融は禰衡というものがいて、自分などはおよびもつかないと言います。そして禰衡の推薦文を書きます。
これは「禰衡を薦むる表」という名文として本当に存在し、文選にも残っています。小川環樹さんの訳ではこの文章の訳出は省略されていますが、立間祥介さんの訳では訳出されています。
名文はよいですが、その禰衡たるやなんでこんな奴を推薦したんだろうという、人を人とも思わない生意気なだけの男です。
なんとなく推薦人の孔融がバカに見えます。

最後に出てくるのは第四十回で、曹操が劉備、劉表、孫権を攻める軍を起こす時、これを諌めます。曹操は聞き入れなかったのですが、孔融があとで「不仁のかぎりのものが仁義をうつ。敗れぬことがあろうか」と言います。それを曹操に言いつけた者があってその結果一家皆殺しになり屍は市場に曝されます。

これだけなら三国志演義にいる数ある脇役の一人です。しかし正史にはもう少し別の顔があります。




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