2017年11月28日火曜日

論語(18); -君子と小人(iii)-

里仁第四の24には
「君子欲訥於言,而敏於行」
とあります。“君子は口を重くして実践では敏捷でありたい。”ということです。でも自分ひとりで修業しているならよいですが、世の中に出て、訥弁ではやりたいことの主旨、具体的に何をしてもらいたいかを人に理解してもらえるのでしょうか。必ずしも全面的には賛同し難いです。

雍也第六の13には
「子謂子夏曰:「女為君子儒,無為小人儒。」
“子夏に向かって言われた。「お前は君子としての学者になれ。小人の学者にならないように」”
儒は儒学者ではなく、学者を指すのだそうです。君子である学者になれ、と言っています。学者必ずしも君子ではなく、単なる物知りではなく、世を救うことを目指せと言っていると解釈されています。小人学者はわが身一つ心掛けのよい暮らしをする、といったことを考えているようです。子貢がやや単なる物知り学者の傾向があったから注意したのだと言われています。
しかし、これは君子の儒については論語を解釈した学者がいっているだけで、書かれていることだけで言えばここには君子の説明はありません。

雍也第六の18では
「質勝文則野,文勝質則史。文質彬彬,然後君子。」
という表現があります。
“質朴さが文化的要素よりも強ければ野人であるし、文飾、教養が質朴より強ければ文書係である。質朴さと文飾、教養がそろったのが君子だ。”
もっともに聞こえますが、文飾に長けた質朴な人というのは矛盾概念にも見えます。

雍也第六の27には
「君子博學於文,約之以禮,亦可以弗畔矣夫!」
とあります。
“君子は広く学問をし、教養を豊かにするとともに、礼の実践で引き締めていくのなら道に背かないであろう。”
ということで「博文約礼」の語はここからきているのだそうです。一所懸命学問するのは一応わかるとして、約礼(約之以禮)の方はどうしたらよいのかよくわかりません。しっかり勉強してあとは礼に悖る事のないようにすればよい、というのも変ですね。

子罕第九の14
「陋,如之何!……君子居之,何陋之有?
のやり取りがあります。
“(東方未開の地へでも行こうかといった孔子に対し、ある人が)野蛮で下卑ですがどうしますか、というと孔子は、君子がそこに住めばなんのむさくるしいことがあろうか。(と答えました。)”
ということです。自分(君子)が行って感化すれば風俗はよくなる、ということでしょうか。これは君子の説明とは言えません。

郷党第十の6に“君子は紺や赤茶色では襟や袖口の縁取りをしない、”の語がありますが、この場合の君子は、孔子で、孔子はそういう礼儀にかなわない服装をしない、という話に過ぎないようです。
先進第十一の1において“後進(今の人)の礼楽に対する態度は君子である”と言っていますが、ここは褒めている訳ではなく、紳士的で華美だといっているだけです。そしてここでは孔子は周の時代の素朴さに従おうと言っています。

先進第十一の21に君子はでてきますが、内容は、言論のもっともらしさを信じてこれに賛成すると、本当の君子なのかうわべだけの人かわからない、ということです。君子の内容の説明にはなっていませんが、むしろうわべの言論のもっともらしさだけでは言っている人の人格はわからない、というのは確かにその通りで気をつけるべきでしょう。ただしこうしたことへの対応が難しいですね。





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