2017年10月14日土曜日

論語(15); -処世の心掛け(iv)-

処世の術として読んであまり納得できない例もあります。

泰伯第八の13
「危邦不入,亂邦不居。天下有道則見,無道則隱。」
という記述があります。
“危うい国には行かず、乱れた国にはとどまらない。天下に道があれば表立って活動する。道のない時は隠れる。”
ということです。
処世の方法として勧めているのは、要するに“君子危うきに近寄らず”です。しかし乱れた、道のない国であるとどこから判定するかといえば、不当な冷遇にあい、左遷され、弾圧される人がいる、あるいは人民が満足に食べられない、刑罰が正しく行われない、重税である、などということなのでしょう。そしてそれは無能な君主がいること、あるいは君側の奸ともいうべき者の専横などが原因なのでしょう。

そういう状況で、不幸な目に遇う人々を見捨てて自分で畑でもやって静かに隠棲した方がよいというのでしょうか。

自分の振る舞いを注意して人の恨みを買うようなことをしない、敵を作らないというのは処世の道として理解できますが、安全第一で、人あるいは人々の難儀を見捨てることを奨励するとなると納得できません。

更に続きとして、
「邦有道,貧且賤焉,恥也;邦無道,富且貴焉,恥也。」
と書いてあります。
“国に道があるのに貧乏で、かつ身分が賤しいのは恥であるし、国に道がないのに金持ちで高い地位にあるのも恥である。”
これに問題を感じます。
この部分の後段はそうかも知れません。正義の通らず、悪人が勝手なことをしているような状況で、高位・高禄で安穏に暮らしているようでは良心に欠けるというものです。

前段はどうでしょうか。国に道義があって良い世の中なのに貧乏だったり、出世できなかったら恥ずかしいと思うべきなのでしょうか。

国がよく治まり道義が通っている状況なら、君主がしっかりしており、高位高官にはまともな人が就いて政務を処理しているのでしょう。そこで蓄えた学問を生かすために世にでて志を遂げよう、と活動を目指すのまではよいですが、それから先、本当に世に出られるかどうかは天命なのではないでしょうか。顔淵第十二の5の中で「富貴在天」、即ち富貴は天命で人力ではどうにもならぬものだ、と書かれていますが、こう考える方が真っ当だと思います。





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