2017年6月18日日曜日

論語(6);史記孔子世家 第十七 -(v)-

以下、史記の孔子世家は説明の十分でない話が続きます。

魯の国で孔子は政治をあずかり、国はよく治まったとあります。治まったのは分かりますが、それは結論であって、どういう施策をしたのかはわかりません。本当によく治まったのなら実務家として優れたところがあるはずですが、内容がわかりません。

しかしよく治まった結果、斉の人間がまた魯が強国になるのではないかと心配します。そこで踊りのできる着飾った美女を80人を、飾り立てた馬とともに魯の君に送ります。そしてその馬や女を魯の都城の南方の高門の外に連ねた、とあります。
そもそもこれが不思議です。魯の君に贈るというのだから連絡して魯の王のもとに送ればよいだけなのに、城門の外に連ねたのです。なぜそんなことを勝手にできたのでしょう?

これからあとの史記の内容も納得いかない話です。
「季桓子微服往觀再三,將受,乃語魯君為周道游,往觀終日,怠於政事。」
となっており、野口さんの訳によれば
“季桓子(季孫氏の当主で魯の宰相)が人目につかない服装で再三でかけて見物し、それを受け入れようとして、魯君に告げて、ともに都城の内外をあまねく巡遊し、それにかこつけて終日女楽を見物し、政事を怠った。”
です。季桓子に、ではなく、君主に贈られたもので、季桓子が下手に追いかければわが身を危険にさらしそうなのに、付きまとっているわけです。そして女楽を楽しんで政事を怠った、とされるのも君主でなく季桓子なのです。
なぜこんなことがまかり通っているのでしょうか。

子路が嘆いて職を辞すべき、と孔子に進言すると、孔子の答えが、「魯は郊祭(天地を祭る行事)を行おうとしている。その時、(ひもろぎ、お供えの肉)を礼式通り大夫におくるようなら留まろう。」です。どうしてそんなことが重要な判断基準になるのかよくわかりません。しかし結局、お供えの肉は配られなかったので孔子は諦めて辞職します。

ところで、ここでまた女楽を受け、三日の間政(まつりごと)を聞かず、と前と同じ話を述べられ、さらにお供えの肉を配らなかったのも魯の君主の話ではなく、季桓子なのです。
魯の定公は何をしていたのでしょう?この辺の事情がまったく分かりません。

さて音楽官が立ち去る孔子を送って行って「罪のないのにどうして」と聞いたところ、孔子は女楽にかこつけて季桓子の行いを謗った歌を歌います。季桓子はあとからその歌を聞いて、孔子に罪せられたことを嘆いたとあります。

季桓子にその程度の良識があるのなら、政を怠ったのも三日ですし、孔子は去らずに季桓子を諫めたらよかったのに、と思うくらいです。
孔子はあっさり身を引いて、魯の政治を混乱させる、という斉の企みは取り敢えず成功させてしまったのですから。





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