2017年6月17日土曜日

論語(5);史記孔子世家 第十七 -(iv)-

次の話題は孔子が定公に、
「臣無藏甲,大夫毋百雉之城」
と進言した件に関わります。ようするに
“臣下は兵を私蔵すべきでなく太夫は百雉()(以上の)城邑をもってはいけない。” と提案したのです。ここで雉は三堵(トツ)で、堵は高さ一丈、長さ一丈だそうです。

臣下がむやみに私兵を蓄えるのは国の乱れるもとですから、もっともな提案ですが、こういう話はうまく実行できるかが問題となります。対象となる太夫は孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の城邑でした。

以下の史記の説明はしかし、論理のつながりの明解でない話になっています。

定公は孔子の話に乗って子路(孔子の弟子)を季孫氏の家宰にして三つとも破壊しようとします。
なぜ季孫氏の家宰に三家の城邑の破壊を命じるとそれが達成できるのかがわかりません。それでも不思議なことにまずは叔孫氏がその城邑である郈(コウ)を破壊します。

ところが子路が家宰になった季孫氏の城邑の費を壊そうとすると、いろいろ問題児である公山不狃(コウザンフチュウ)、および叔孫輒(シュクソンチョウ)なる男が費の人を率いて反抗し、魯の都(曲阜)を襲いました。これだけではなぜ襲撃が起きたかがわかりません。費の人が自分たちの住む城郭を壊されることに不安を抱いたのを公山不狃と叔孫輒が扇動したのだと私は勝手に想像しています。

情けないことに、費の人に攻められた定公、季孫、孟孫、叔孫は季氏の宮(宮殿?)に逃げ込みました。「登武子之臺」とあって、季武子が作った台に登ったのだそうです。
ここで孔子は申句須(シンコウシュ)と楽頎(ガクキ)に台を降りてこれを伐つことを命じます。まさか台から二人降りて行っただけではどうにもなる筈はなく、台の下に味方の兵がいたのか、あるいは台そのものが広大で、兵もそこそこいたのでしょうか。これで費の人は敗走します。その結果、公山不狃と叔孫輒は斉に逃げたとのことです。そしてやっと費を破壊します。
季氏の家宰となった子路は何をしていたのでしょう?役に立ったのでしょうか?何も記述がありません。

最後に孟孫氏の城邑の成を壊そうとすると、斉の宰が、成は孟氏の支えで、成がなくなると孟氏も無くなる。そうなると、斉の国の人が魯(の北門)に攻めてくる、と言って止めます。
定公はそれでも成を包囲したのですが勝てなかった、とあります。

これは尻切れトンボの話です。臣下の城邑を君主が兵を率いて包囲して勝てなかったのですから後々ごたごたになりそうな話ですが、ここには何も書いてありません。

これでは結局孔子は初めの思想だけはよいものの、禍根を残しただけなのではないでしょうか。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿