2013年6月27日木曜日

漢書;張陳王周伝第十



史記では張良の伝記は列伝ではなく、留侯世家第二十五になっています。高等学校の頃、世家というのは伝記の中で特に諸侯の伝記だが、孔子だけ特別扱いで世家になっている、という説明を聞いたか、あるいは読んだかの記憶があります。
しかし列伝にも王や諸侯にあたる人があり、あまり自分にとってはその区分けは明瞭ではありませんでした。

実際に史記を読んで、ただちに思ったのは、世家という分類を列伝と分けて作る意味は、春秋戦国の頃の諸国の王侯家の歴史を立てるからであって、これは何代にもわたり国主が連綿と続いていて、これらについての記録は一つの国の歴史であり、一代記である列伝とは性質が異なるからだ、ということでした。だから、世家と列伝に分かれるのだ、と自分としては考えたのです。

しかしその理屈からいうと張良の留侯世家や孔子世家は、一代記ですからわざわざ世家というのは変で、留侯伝、孔子伝で十分です。しかも他にもそうした世家の例が幾つもあります。

Wikipediaによれば世家の意味は“世々家禄を受ける者”であるが、諸侯のみならず“時代を超えて祭祀を受ける者”についても世家を立てたのだ、という説明がなされています。
大雑把にいえば春秋戦国の各国の諸侯の歴史と列伝の中で特に偉い人の記録ということになる訳です。

漢書では世家はありません。これは漢に就いてだけ書く断代史だから世家がないのだ、という考え方をすれば、世家はやはり一つの国の歴史にふさわしいということになると思うのですが...
張良についての記述は陳平、王陵、周勃と一緒に一つの伝(張陳王周伝第十)に入っています。そして史記に伝記のある人のは、漢書は流用で済ませていますから内容は史記と同じです。

張良は、「籌を帷幄の内に運らし、勝を千里の外に決した」事でよく知られています。非常に知恵のある参謀です。
しかし、伝記の初めの方を見ると、張良の家は代々韓の国の宰相の家柄であったが、秦が韓を滅ぼしてしまったので、これを恨みに思い、全財産を傾けて刺客をもとめて仇を報いようとした、とあります。力のある男を雇って鉄槌で行幸してくる始皇帝にぶつけさせたが暗殺失敗で、追及されて逃げて下邳に隠れたそうです。結構血の気があります。下邳で任侠の徒として人殺しをした項伯を匿ったとあります。これもあまり名参謀のイメージではありませんね。

陳勝、呉広の乱がおきた時も若者を百余人を集めたそうです。そして沛公に会いこれに従属したのです。この辺の振る舞いは、後の黄巾の乱の時代の若かりし劉備とやや似ています。

沛公は度量が大きく張良のいう事をよく聞いたので、張良もすっかり感激して従ったようです。しかし、そのあと一度は出身国である韓の王を再び立てさせ、張良はそこの司徒となり、韓王とともに韓の地を攻略して数城を得たとあります。残念ながらその後、得た城は秦に取り返され、潁川で遊撃の任務にあたったようです。
結構忠義の人であり、初めから武将としてやる気がなかった訳でもないのかと思います。しかし頭がよく見通しが良すぎて、戦で無理乱暴をしないから武将としてはやや不向きだったのではないでしょうか。


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