ここで唐突かも知れませんが史記を扱います。
史記全体は野口定男さんの訳(平凡社版)で読んでおりますが、史記列伝は世界の名著(中央公論社)の貝塚茂樹さんの責任編集になる「司馬遷」も見ております。
なお、貝塚さんの列伝の訳では各伝の冒頭に、何故この伝を立てたかの説明を入れております。これは太史公自序第七十にまとめて書いてあるのです。野口さんの訳ではもとの通り太史公自序第七十は最後に置いてあります。
司馬遷が伯夷伝を作った理由は、”人々がみな利を争ったが、伯夷・叔斉のみが義に奔った。国を譲って餓死し、天下はこれを称揚した。”です。
伯夷・叔斉はあちこちで言及されていて忽ちその名前に気づきます。私は50年近く前に三国志(演義です)で知りました。
二人は河北にあった国の国主の息子であって国の跡継ぎを譲り合って逃げたと言います。兄弟の順は伯仲叔季と呼びますから、伯が長男で、叔が三男だったのでしょうか。父親は結局間の子(仲に当たる)に跡を継がせたといいます。周の武王が殷の紂王を撃つのを諌め、容れられず、周の俸禄を受けることを潔しとせず、首陽山という山で蕨を取って食べていたが餓死した、と言います。“痩せこけた死骸があるとわらび取り”という川柳があるくらいですから、江戸時代でも良く知られた人達だったと思います。
ここで疑問に感じてしまうのは、やはり何故、伯夷(および叔斉)の伝が立てられるのかです。国を譲り合ったのは二人とも利を追わない慎み深い人だったのでしょう。しかし、それで国の民に何かいいことがあった訳ではありません。
周の武王が殷の紂王を征伐するのは百パーセント正義感だけではなかったかも知れません。しかし正義の戦ではあります。二人はこれを諌めて暴虐の王を撃つのをやめて武王が代わりに何をすべきだったというのでしょう。彼らの義とは何だったのでしょうか。
二人の餓死のあとの議論については、困ったことに野口さんの訳と貝塚さんの訳で違うのです。専門家でないから使ったテキストが違うのか二人の解釈が違うのかわかりません。
野口さんの本(昭和47年)では
“ある人は、「天道は依怙贔屓なく常に善人の味方をする」という。
(以下は司馬遷が言っていることです。適当にまとめて書きます。)はたしてそうか、そうだとしたら伯夷・叔斉のごときは善人と言うべきものなのか、そうでないのか。
伯夷・叔斉は仁徳を積み、行いを清潔にして立派だった。
でも不遇な死に方をしてしまった。同様に(孔子の弟子の)顔淵も偉かったが不遇だった。
一方で、大泥棒が悪事を働いていながら天寿を全うしている。
上記の例はもっとも明らかな例であるが、近世に至っても志行が世の秩序に合わず、悪事をなしながら死ぬまで逸楽の人がいる一方で、言葉を慎み、終始謹直でありながら災禍に会うものが数えきれない。
自分は思いまどう。天の道は是なのか非なのか。“
となっています。“ある人”の行ったことは「天道に依怙贔屓なし」だけで、その後はすべて司馬遷の言っていることであり、”天道是邪非邪”は自分への問いかけです。
一方貝塚さんの本(昭和53年)では
“ある人が言った。
「お天道様に依怙贔屓はない、いつも善人の味方をなさる、というけれども(以下はその人が続けて言っていることです。適当にまとめて書きます。)
伯夷・叔斉は善人と言えるのではなかろうか。
伯夷・叔斉は仁徳を積み、行いを清潔にして立派だった。
でも不遇な死に方をしてしまった。同様に(孔子の弟子の)顔淵も偉かったが不遇だった。
一方で、大泥棒が悪事を働いていながら天寿を全うしている。
これは天が善人に味方するということに対する最も明白な矛盾である。近世に近づけば近づくほど素行がおさまらず人のはばかることを平気でやりながら、死ぬまで生活を享楽する者がいる一方で、不浄の国に仕えず、言葉を慎み国家の大事に関することでなければむやみ興奮しない人で禍にかかった人は数えきれない。
天の道は是なのか非なのか。“
となっています。ある人が天道が非である例を挙げ、天道が是か非かと司馬遷に質しています。そしてこれよりあとが司馬遷の回答になります。
あとは大体類似です。私が思った重点をごくかいつまんで書くと以下のようになると思います。
富貴を求め利を求める人と義を追う人がいる。濁った世の中でこそ清廉な人が目立つ。しかし、立派な行いをしても世に知られず埋もれてしまう人がいる。悲しいことだ。
伯夷・叔斉は孔子が賞揚したから名を遺した。顔淵も孔子が褒めたから名を遺した。聖人に認められない人は身を慎み正しい行いをしても後世に名が遺せない。
さて、名を挙げたり名を遺したり出来るのは、彼らを知ってくれる偉い人(孔子など)がいるかどうかにかかっている、ということを司馬遷は嘆いているのでしょうか?それともそういうものだ、と言っているだけなのでしょうか?それはよくわかりません。
現代人の道徳観で伯夷叔斉を見るから冷たい評価をしてしまうのではないか、という心配はあります。でも敢えていうならば伯夷・叔斉は清潔で慎み深い人で利は追わず悪いことはしなかった。ただし、こんなに名を残すのは孔子が褒め、司馬遷が伝を立てたからであって実質以上に名を遺しているのではないでしょうか。
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