2018年10月8日月曜日

論語(26); -君子と小人(xi)-

子張第十九の3に子夏の門人が子張に、友と交わる道を聞いた話が出てきます。すると子張は逆に君たちの先生である子夏はなんといったのかと聞きます。門人たちは、交わってよい人なら交わり、良くない人なら遠ざかるように、と言われましたと回答します。これは子夏が孔子から言われていたことなのでしょう。すでに自分の先生に聞いているのだからなぜ、子張にわざわざ訊いたのかの事情は分かりません。
そしてその意見に対しての子夏の意見は、

「異乎吾所聞:君子尊賢而容眾,嘉善而矜不能。我之大賢與,於人何所不容?我之不賢與,人將拒我,如之何其拒人也?
つまり、
“自分の(孔子から)聞いたのとは違う。君子は優れた人を尊敬するが、一般の人々も受け入れ、善い人を褒めつつも駄目な人にも同情する。自分がとてもすぐれているならどんな人も包容でないことがあろうか。こちらが劣っているなら向こうがこちらを拒むだろう。どうして(こちらから)人を拒むことがあろうか。”

ということになっています。これも子張が孔子から聞いたことなのでしょう。
学而第一の8において
「無友不如己者
すなわち、“己(おのれ)に如かざる者を友とすること無かれ、”とあります。子夏の言に対応します。
一方同じ学而第一の6においては
「汎愛眾,而親仁
すなわち、“ひろく衆を愛して仁に親しみ”とあります。子張の言に対応します。

完成した君子ではなく見識の定まらぬ時は子夏の説いた振る舞いがただしく、完成した君子ならば子張の聞いた振る舞いもできるようになる、というところなのかと考えます。

次の子張第十九の4には子夏の言葉として
「雖小道,必有可觀者焉;致遠恐泥,是以君子不為也。
すなわち
“農、医、卜のような各種の技芸(小道)でも必ず見るべきものがある。ただ君子の道を遠くまで進もうとするものには、それに拘泥して邪魔されることがあろう。だから君子はそれをしないのだ。”
となっているのです。君子の道を極めるには余計な事に目を移すな、というところでしょうか。
ここで小道は朱子の論語集注で農、圃、医、卜が挙がっているのでそれに従えば上記のような解釈になります。なお圃と農の区別を私は良く知りません。
朱子の挙げたもの(現代では卜は別としても)を排除すると、空疎な道徳論を唱える道学者風の人が偉いということになりそうです。

小道を茶道、華道、囲碁、将棋のような技芸事を考えれば、納得できそうですが、それらでさえそんなに排撃すれば堅苦しいだけの人物になるのではないでしょうか。





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