2022年3月21日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(10) -衛氏(i)-

さていよいよ陳皇后の次に立つ衛皇后(あざな子夫とあります。)の話になります。彼女は武帝の姉である平陽公主の歌手でありました。武帝が平陽公主のもとに立ち寄ったときに公主は飾りとしておいておいたそばに侍る美女をお目通りさせたのですが、武帝は気に入りませんでした。あとで宴会で酒を飲んだ時に歌手を出しましたが、この歌手の中の衛子夫を武帝は気に入りました。武帝は平陽公主に金千斤を賜ったといいます。これがどの程度の価値かを機械的教科書的に計算すると、漢代の一斤が227 gですから千斤は227 kgです。現在(令和4年3)金はおよそ\8000/gですから227 kgでは約18億円となります。こういう計算にどれほどの意味があるか分かりませんが、とにかくかなりの価値のものを与えたことになります。

後にも書きますが、衛子夫の実家は微賤ですが、衛子夫のお蔭で栄達した親族には優秀な人材がでます。私の推測ですが、衛子夫も頭が良くて受け答えが気が利いていて武帝の心をとらえたのだと思います。

平陽公主は早速子夫を車に乗せて宮中に送り込んだのですが、この時衛子夫に向かって

「行矣!強飯勉之。即貴,願無相忘!」

といったとされます。

“さあお行き。つとめてご飯を食べるんだよ。もし貴い身分になれても、お互いに忘れないでいましょうね”

と訳されています。皇帝の姉である平陽公主といえども皇后になるかも知れない女に恩を売っておくことは大きなメリットがあるのでしょうね。

 

大枚はたいて連れてきた衛子夫を一年あまり相手にせず、その結果子夫は武帝にいとまごいしました。武帝は可哀そうに思って寵愛し、なんとこれで妊娠し、子夫は一挙に尊寵されるにいたります。子夫は三女を生み、さらに男の子()を生み皇后に上り詰めます。この子夫の出世は歴史にも影響を与えます。すでに書いたように皇后の血族が出世できるお蔭で優秀な人材が世に出たことによります。

彼女の兄(衛長君)と弟()が宮中に登れるようになります。衛長君は早く死んだようですが、青(衛青)は匈奴を撃って日本の歴史の教科書にも出てくるほどに名をあげました。そして大司馬大将軍まで登り詰めています。

衛子夫の姉の子に霍去病がいます。大司馬票騎将軍までのぼります。このひとも衛青とならんで匈奴を撃ち大いに名を挙げています。

衛子夫の子供、拠は太子に立てられ、房太子と呼ばれます。しかし気の毒にも彼は江充というものに陥れられて死ぬことになります。房太子の死にいたる経緯は簡単に言いますと、またしても巫蠱がらみでした。武帝が病に臥せった時江充は、もし武帝が崩御すると、自分は房太子やその母の衛皇后とかねて仲が悪かったので立場が危ないと考えます。そしてまず武帝の病は巫蠱つまりつまり呪いによるものと奏上します。古代の人だから呪いといったものも本気で信じるでしょう。それにそういわれれば人によっては体の調子がよくないような気もしてくるものです。江充は狙いを付けた相手の土地の土を掘り返して木偶人形が出たと言い立て、呪術師に自白を強要し、沢山の人を死に追いやります。あらかじめ木偶人形を埋めておいてから告発するのですからたまったものではありません。これで人々は恐慌をきたし人に責任を擦り付けようと誣告したりするものだから、全国での巫蠱騒動の犠牲者は数万になったそうです。(漢書 蒯伍江息夫伝第十五)

そしてついに宮中まで捜索し、後宮、皇后のところまで捜索し、ついに太子宮で木偶人形を発見します。もちろんこれは江充が仕込んだものです。房太子は弁明することもできず追い詰められて江充をとらえて殺します。しかし結局房太子も謀反人として攻撃され、縊死します。そして衛皇后までも自殺に追い込まれてしまいました。この悲劇は大きく広がっていて、衛子夫の生んだ房太子の姉二人も江充の陰謀で殺されていますし、房太子の子供である三人の男の子と一人の女の子も殺されています。この騒動の結果衛氏はあらかた滅ぼされてしまいました。一人の女性が帝の寵愛を受けることは、それにより血のつながる衛青、霍去病のような優秀な人材が力を振える道を開いたのですが、逆に陰謀家により大変な災難を被る不条理を伴っていたようです。




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