2014年12月14日日曜日

史記 楽毅列伝 第二十(2)


さてその当時斉が強勢で楚、三晋(韓、魏、趙)を破り、秦を攻撃し、趙を助けて中山国を滅ぼし、宋も打ち破り、日の出の勢いでした。そしてその結果
「諸侯皆欲背秦而服於齊。」
とありますから、諸侯は秦に背いて斉の方につこうとしたのです。しかし、時の斉王の人柄が問題でした。まず自国内では
「湣王(ビンオウ)自矜,百姓弗堪。」
だった、つまり斉の湣王が誇り高く(威張っていたのでしょうね。)、百官人民が耐えられない思いをしていたのです。

そこで燕の昭王が楽毅に斉を伐つことを楽毅に諮ります。別に斉の人民の苦しみを心配したのではなく、敵に弱みがあるからつけこんで戦争を仕掛けようという魂胆です。
楽毅は、独力でやるのは容易でなく、趙、楚、魏と協力してやるのがよい、と言います。楽毅は国策の相談を受ける立場だったのです。そして楽毅はうまく誘えば彼らは乗ってくる筈、と踏んでいたはずです。
そのあと
「於是使樂毅約趙惠文王,別使連楚、魏,令趙說秦以伐齊之利」
との記述がつづきます。ここの部分の訳は野口さんと貝塚さんでニュアンスが違います。

昭王は楽毅に命じて趙の恵文王と盟約させるところまでは同じです。
そのあと野口さんの訳では
”さらに別の人に命じて楚・魏を連合させ、さらに、趙を通じて秦に斉を伐つことの利を説かせた。”
です。
しかし貝塚さんの訳では
”別に楚および魏との連合をとりつけさせるとともに、趙を通じて、斉国討伐による利益を餌として秦を説得させた。”
とあります。
貝塚さんの方は楽毅がすべて取り仕切った書き方です。実際そのあとの文章で
「諸侯害齊湣王之驕暴,皆爭合從與燕伐齊。樂毅還報,」
とあります。”諸侯は湣王の暴虐を憎んでいたので争って合従し、燕とともに斉を討とうとした。”のはよいとして、「樂毅還報」、すなわち楽毅が帰国してそれを報告した、とありますので、ようするに楽毅が仕切ったという貝塚さんの訳のニュアンスの方が正しいように感じます。
なお、楽毅が昭王に述べた、趙、楚、魏と協力してやるべし、という意見には、彼らは乗ってくるだろうという根拠のある見通しがあったことがわかります。

見通しは見通しとして、実際に楽毅は、趙を仲間に引き入れ、楚と魏も引き込み、秦まで引き入れたのですから、相当な外交手腕があったということになります。
ただの将軍のやることではありません。外交手腕のある政治家だったのです。

ここに至って燕の昭王は兵を総動員し、楽毅を上将軍とします。趙の恵文王も相国の印を楽毅に授けます。その結果楽毅は趙、楚、韓、魏、燕の軍を併せて指揮を執り、濟水の西において斉の軍をやぶります。寄り合い所帯の軍の指揮を執るのは難しそうですが、それをやり遂げています。つまり楽毅は軍の司令官としても有能だった訳です。
この勝利に満足して他の諸侯は兵を引き上げます。他の諸侯にはこの戦争でどんな得があったのでしょう?湣王が威張っていて気に入らないから懲らしめて満足したのでしょうか?中途半端な行動です。なぜ途中で引き上げたのか、そのあたりの事情は史記にはなにも書いてありません。

楽毅は燕の軍だけを率いて追撃し、臨菑(リンシ、斉の国都)まで迫ります。一方斉の湣王は逃げて莒(キョ)にたてこもります。このあとの表現は
「樂毅獨留徇齊,齊皆城守。」
とあります。
野口さんの訳では、
”楽毅はひとりとどまって、斉をめぐって政令を発したが、斉ではみな籠城した。”
ですが、’斉をめぐって政令を発した’の意味が今ひとつあきらかでないし、あとに続く皆が籠城することと因果関係結がよくわかりません。
貝塚さんの訳では、
”楽毅のひきいる燕軍だけがふみとどまって斉国平定にあたると、斉の諸城市はみな守りをかためて降伏しない。”
とあります。こちらの方が意味も因果関係も明らかです。

楽毅は臨菑に攻め入り、斉の財宝、祭器ことごとく略奪し、燕に送ります。昭王は喜んで濟水まで出向いて軍をねぎらい、楽毅を昌国に封じ、戦利品を持って帰国しますが、楽毅にはまだ降伏しない城市を攻撃させます。楽毅は斉国平定五年で七十余の城を落とします。そして残すは莒と即墨(ソクボク)のみとなります。ほとんど斉を攻めとったわけです。

つまり楽毅の軍事的才能もなみなみならぬものがあることがわかります。いかほどの軍勢で攻め込んだのかわかりませんが、五年も敵地にいては補給、兵の補充も大変でしょう。これらを乗り切る才覚と人を従わせる迫力があったわけです。ただ目前の戦闘を勝利する猛将とはかなり異なるようです。






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