楽毅の名前を知ったのは昔、三国志演義の第三十七回で劉備を訪れた司馬徽が、諸葛亮について、「每常自比管仲・樂毅、其才不可量也。」(いつも自分を管仲・楽毅に比していて、その才は量り知れない。)というところを読んだ時です。
ここの場面で小川環樹さんの訳では、これを聞いた関羽が
と言います。すなわち楽毅が大変優れた武将であることが述べられています。
ここでわざわざ小川環樹さんの訳とことわったのは、立間祥介さんの訳では関羽は
”たしか管仲・楽毅は春秋・戦国の時の人物で、その功は天下を覆うほどであったと聞きましたが、...”
としか言いませんで、これでは管仲も楽毅もどんな人だかわかりません。
はじめに読んだ三国志(演義)は小川さんの訳だったので、私は楽毅は攻城にすぐれる猛将だと思い込んでしまいました。しかし、考えてみると単にそれだけの人物だと諸葛孔明が自ら比すにはなんだか似つかわしくない人間のように見えます。
史記の記述によれば、楽毅の先祖の楽羊は魏の国の文侯(BC424-BC387)の将軍だったのです。そして中山国を攻略します。文侯は楽羊を中山国の地である霊寿を所領地として与えます。
楽羊は霊寿で死んで葬られ、子孫はその地に定着します。しかし中山国は趙の武霊王によってBC296年に滅ぼされます。一方楽氏には楽毅が生まれます。
さて生まれた楽毅についての記述の始まりは「樂毅賢,好兵」とあります。
野口さんの訳では”楽毅は賢明で軍事を好み、”となっていますが、貝塚さんの訳では”楽毅は賢明で武事が好きな人だった。”となっています。武事というと個人的武芸のような気がしてしまいます。ここは軍事という方が適切と思います。そして彼は趙で挙げられます。
ここで騒動が起き、楽毅は趙を去り魏に行きます。
「及武靈王有沙丘之亂,乃去趙適魏。」
なのですが、ここの部分の記述の訳が不思議です。貝塚さんの訳では
”武霊王の時に沙丘の行在所でお家騒動の乱がおこると、趙をでて魏の国へ行った。”
です。野口さんの訳では
”武霊王が沙丘の内乱で死ぬと、趙を去って魏におもむいた。”
となっています。
どちらの訳も意訳に見えます。
とにかく趙から先祖の楽羊が仕えた魏に行った訳です。
ここで話が飛びます。そのころ燕が宰相子之の乱がもとで斉に大敗し、燕の昭王は斉に対する怨みをはらそうと思わない日はない状態だったのです。しかし力不足で、まずは人材が必要と考え、郭隗という者を礼遇し、賢者をまねこうとしておりました。このあとの部分ではこんな記述があります。
「樂毅於是為魏昭王使於燕,燕王以客禮待之。樂毅辭讓,遂委質為臣,燕昭王以為亞卿,久之。」
貝塚さんの訳では、
”楽毅はそこで魏の昭王の使者として燕に行った。燕王は客人として丁重な待遇を与えた。楽毅はそれに値しないと謙虚な態度をとったが、そのまま家臣としての忠誠を誓って燕に仕えることにした。燕の昭王は公卿に準ずる身分を与えた。こうしてかなりの月日がたった。”
となっています。なんだか燕に行く時の楽毅の態度が曖昧な記述です。その後ずるずると臣下になってしまうのも腑に落ちません。
野口さんの訳では、
”これ(人材を集めている話)を聞くと、楽毅は魏の昭王に願い出て、使者として燕におもむいた。燕王は賓客に対する礼をもって待遇しようとしたが、楽毅は辞退し、礼物をさしだして臣下となった。燕の昭王は、楽毅を亜卿に任じ、こうして久しい年月が流れた。”
となっています。’礼物をさし出して臣下となった’という部分はどこのテキストにあるのか知りませんし、変な話ですね。しかしこちらの訳では人材を募っているという話を聞いて、乗り気になり出かけていった、いう楽毅のスタンスははっきりしています。
楽毅は(多分政治家あるいは官僚として)すでに燕でも名が通っていたことが推察されます。また、魏でくすぶっていることに不満があったのではないでしょうか。
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