2014年11月24日月曜日

史記 伍子胥列伝 第六(5)


伍子胥が子供を斉に残した情報を得た伯嚭は呉王夫差に次のような讒言をします。

一、伍子胥の人となりは強情で乱暴、情に欠けて疑り深い。その伍子胥が怨みに思っていれば、のちにきっと有害な禍いのもとになる。
(前段の主張は具体的な例が挙がっていません。よって後段の主張は明確な根拠がありません。)
二、過日王が斉を討とうとしたとき、伍子胥は不可としたが、王は却って大きな成功を収めた。伍子胥はその計略が用いられなかったことを恥とし、王に対して怨みに思っている。
(前段は本当の話ですが、後段は伯嚭が勝手に言っているだけです。)
三、王が再び斉を討とうとしているのに、伍子胥は強硬に事を邪魔しようとしている。伍子胥は呉が破れ、自分の考えが勝れていたことが証明されることを願っているだけである。
(原文は「子胥專愎彊諫,沮毀用事,徒幸吳之敗以自勝其計謀耳。」で、野口さんの訳も貝塚さんの訳も意味は同じです。これも前段はある程度事実ですが、伍子胥の忠告に従って呉が斉に出兵しなければ負けることもないので、後段の主張は前段とは関係なく、伯嚭がそう主張しているだけです。)
四、王が自ら出かけ、国中の兵を挙げて斉を討とうとされているのに、伍子胥は自分の意見が容れられないので病気と称して従軍しない。王は備える必要がある。このような状況では反乱を起こすのは難しくないであろうから。
(伍子胥が従軍しないならば、このような讒言はあり得るので行かないのは危険な行為です。)
五、入手した情報によれば伍子胥は斉に使いしたときに、彼の子供を斉の鮑氏に託している。人臣でありながら国内で意を得ないで、外の諸侯に頼っている。自らは先王の謀臣と思い、今は用いられず怨みに思っている。早くなんとか処置をつけるべきである。
(これはわざわざ伍子胥が撒いた禍の種の結果です。)

夫差は自分も疑っていた、と言い(ここに至っては当然の成り行きです。)、伍子胥に属鏤(ショクル)の剣を与えてこれで死ぬように命令します。

ここで伍子胥が嘆いて言った内容は次のようなことです。
一、讒佞の臣である伯嚭が国を乱そうとしているのに、忠臣の自分に誅伐を加えるのか。
(ここでこう述べるからには伍子胥は伯嚭が呉の国にとってよからぬことを説き、自分に対し悪意の讒言をすることを知っていたことになります。彼はなぜ対抗して手を打たなかったのでしょう。)
二、自分は夫差の父(闔廬)を覇者にしてやった。
(この功績はあったとしても、伯嚭の、伍子胥は昔は用いられたが、今は危険な不平党になっている、という非難を裏書きしているだけです。)
三、夫差が太子に決まらないで、諸公子が太子に立ちたがっていた時に、自分が命をかけて王と争わなかったら太子になれなかったろう。夫差は太子に立つと呉の一部を割いて自分にくれようとしたが、自分は敢えてのぞまなかった。
(この言は伍子胥ほどの知恵者でも間違える例だと思います。天下取りの、あるいは即位への第一番の功臣などというものは、王にとってしばしば却って疎ましい人間になってしまいます。その功績をあてにして大きな顔をしていたら身の危険を招くことに気づかなかったのでしょうか。)

死ぬにあたって舎人(けらい)に命じたのは次の二点です。
一、墓の上に梓(アズサ)を植えよ。呉王(夫差)の棺材のためだ。
二、目を抉(エグ)りだして呉の東の正門にかけておけ。越軍が攻めこんで来て呉を滅ぼすのをみてやろう。

とはいうものの舎人は多分梓も植えないし、目を抉って門にかけることもせず葬ったと思います。伍子胥の指示に従ったら今度は自分の命が危なくなります。

夫差は伍子胥の言ったことを聞き、怒って伍子胥の屍を引きずり出し馬の革で作った袋に入れて揚子江に投げ込ませました。感情に流された愚行ですね。

しかし、その後確かに伍子胥の予言通り、呉は越王勾践によって亡ぼされ、呉王夫差も死にました。

伍子胥は有能で見通しがよく、また志のために艱難辛苦によく耐える人だったのです。父と兄の讎打ちをするめに、逃避行の途中では乞食までして隠忍自重したのです。小さな義理とか体面にこだわって自らを破滅させず、讎打ちをし、呉王を覇者たらしめ、歴史に名を残したのです。
その伍子胥にしてなお、最後はみすみす小人の策に嵌って命を落とすはめになります。小人伯嚭の策は見えていたのですが、すでに名をなした伍子胥、夫差を冊立した伍子胥には伯嚭ごときに丁寧に対処することはプライドが許さなかったのでしょうか。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿