2014年11月10日月曜日

史記 伍子胥列伝 第六(2)


伍子胥は、太子の建が宋へ逃げたので、自分も宋へ逃げます。

伍尚はすすんで捕らわれて、楚都に行きます。そして兄弟の予想通り、父の伍奢とともに殺されます。
兄弟が二人とも一緒に来ず、伍子胥が逃げたという口実で殺したとは史記に書いてありません。仮にそういう口実にしたとしても、いくら古代でも大した説得力もないことは明らかと思われます。

伍子胥は宋に到着しますが、その時運が悪く宋で内乱が起きます。仕方がなく、伍子胥は太子建とともに鄭(テイ)に行きます。鄭では非常に厚遇されます。しかし太子は鄭が小国で後ろ盾にするには不足と判断し、晋に行きます。ところが晋の頃公が、太子建に
「太子既善鄭,鄭信太子。太子能為我內應,而我攻其外,滅鄭必矣。滅鄭而封太子。」
と言います。すなわち、
”太子は鄭とよく、鄭は太子を信用しています。太子が晋の為に内応して、晋が外から攻めれば、必ず鄭は滅びます。鄭が滅んだら太子をそこに封じましょう。”
と提案したのです。

伍子胥伝のこの部分だけ読むと、晋の頃公の提案は非常に唐突です。しかしこの時より少し前、紀元前6世紀から小国鄭は毎年のように強国である晋とか楚に攻められていました。晋の立場からすれば度重なる攻撃の続きです。
太子が鄭に世話になっていながら、晋に行くこと自体が問題を孕んでいたわけです。

太子は頃公の提案にその気になって鄭に帰ります。彼がこの提案に乗ることに何の大義名分もありません。他国の侵略の手伝いです。自分によくしてくれている鄭に対して、やろうとしていることは全くの忘恩行為です。
しかもそんなことをして鄭が滅亡したあとで、晋が鄭の地をどうしてそのまま太子に進呈してくれるのでしょうか。太子は欲に目が眩んで愚かな行為に走ったとしか思えません。

この時、伍子胥がなんと言ったか史記には書いてありません。止めなかったのでしょうか?

一方計画の機が塾さぬうちに、太子はあることで従者を殺そうとします。なお、’あること’が何であるかは史記に記述がありません。ところがその従者は太子の計画を知っていたので、鄭に密告します。その結果、鄭の定公と子産(その時の宰相)は太子を誅殺します。

伍子胥は危険を察知して太子建の子供である勝をつれて呉に向けて出奔します。厳しい追手がかかり、勝と分かれて途中で乞食までしてやっと呉にいたります。勝は勝でうまく呉に逃げたようです。

当時の呉は王が僚で、公子光が軍事を統べる将軍でした。公子の光は僚の父の兄の子ですから僚の従兄弟になります。伍子胥は公子光に近づくことに成功し、呉王にも目通りできたようです。

その後伍子胥にとっては望ましいことに、呉と楚の間で養蚕用の桑の葉の取り合いから紛争が起こります。公子光が派遣され、楚の鐘離と居巣を抜いて帰還します。伍子胥は呉王に、楚は破れるからまた公子光を再び派遣するように勧めます。
ところが公子光は呉王に、伍子胥は父と兄が楚で殺されたので、自分が讎を打ちたいだけの話、楚はまだ破れません、といって反対します。
これで伍子胥は公子光は王を殺して自立したいのだと察します。公子光は呉国のため王のためを図っている振りをしているだけなのです。そこで専諸という者を公子光に推挙して自分は退き、勝(楚の太子建の子供)と耕作生活に入り時節をまちます。

この専諸は刺客列伝第二十六に出てくる男で、のちに王僚に対して刺客になります。王僚を殺して呉を乗っ取ろうという場合の手助けに適任な人間を伍子胥は推薦しているわけです。お望み通り呉を乗っ取らせて、それから楚を攻めさせようというのです。
腹に一物をもつ策士ばかり出てきます。

伍子胥がどうしても讎うちをしたいのなら、この時点では公子光を利用しなければならなかったのでしょう。しかし、その公子光は決して人がよい訳でも信義に厚い訳でもありません。その下で働いていてはいずれ自分自身の身の危険を招きそうです。





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