2014年11月18日火曜日

史記 伍子胥列伝 第六(3)


そうこうしているうちに楚の平王が死にます。伍子胥にとっては直接の讎打ちができなくなり、残念な事態です。

そして、跡継にぎは、公子の建ではなくて、平王が建に娶らせるのをやめて自分の妃にした秦の公女の産んだ軫という者が、昭王として立ちました。

呉王の僚は楚の喪につけこんで二人の公子に命じて楚を襲わせます。
もし攻撃するなら、建が押しのけられて軫の立ったばかりを狙うのはやりやすいでしょうが、はっきりと建を立てるべきとかいう名分でも立てないと人の喪につけ込んだ侵略に見えます。しかし史記には呉王がそのような大義名分を掲げたとは書いていません。

ところがこの侵略はうまく行かず楚は呉軍の退路を絶ち、呉軍は帰国できなくなり、呉内の兵力は空になります。
かねて王位を狙っていた公子の光には絶好のチャンスです。公子光は先に伍子胥が送り込んだ専諸に王僚を刺殺させ、自ら王になります。これが呉王の闔廬(コウリョ)です。
そして伍子胥はこれまでの耕作生活をやめて「行人」として用いられるようになります。「行人」は現在の外相にあたると言いますが、本当は宰相的な意味もあるといいます。
伍子胥は世に出たのはめでたいですが、主人の闔廬のやったことたるや火事場泥棒のようなものですし、刺客の人材を送り込んだ伍子胥はその手伝いをしたことになります。

一旦は呉の楚への攻撃は収まったのでしょうが、闔廬の即位後三年目からなんども繰り返し楚を攻撃し、最終的に楚の都である郢に攻め込み昭王は出奔します。郢にまで攻め込んだので、伍子胥はせめて昭王でも捕らえようとしますが、果たせませんでした。そこで恨みのある平王の墓を暴いてその屍を三百回鞭打ってやっとやめました。これでなんとか父と兄の讎うちができたのです。

この屍の鞭打ちに対して、楚の大夫である申包胥が一度は北面して仕えた主人に対して非道ではないか、と非難の手紙を送ります。これに対する伍子胥の答えは有名で
「吾日莫途遠,吾故倒行而逆施之。」
”自分は日暮れて道通しという状態なので、道理に従ってばかりもいられず、道理に反することをしのだ。”というものです。
ここで”日暮れて道通し”といっているからには、伍子胥はまだ復讐がやり終わってない、と考えているのです。あとは楚を滅亡させることなのでしょう。

申包胥の非難はもっともらしいですが、平王がすでに死んでいる以上、伍子胥は復讐としては屍を鞭打つことくらいしかできません。死屍を鞭打つのが非道なら申包胥は伍子胥の讎打ちとして具体的に何をやったら正しいというのでしょうか?
楚を滅ぼすことでしょうか?平王の跡継ぎの昭王を殺すことでしょうか?現代的感覚ではいずれもむしろ伍子胥の復讐の本旨から外れた残虐行為です。
そもそも楚を滅ぼすことは申包胥も望んでいません。

申包胥はかつて伍子胥が
「我必覆楚。」“自分は必ず楚を覆してやる。”
と言ったのに対し、
「我必存之。」”自分は必ず楚を存続させる。”
と言い返したと言われています。
申包胥は秦に援軍をたのみ、秦軍は楚を救援して呉を打ち破ります。

闔廬が楚で昭王を探している間に、同行していた闔廬の弟の夫概が勝手に帰国して自立して呉王となってしまいます。油断も隙もあったものではありません。その結果闔廬は楚から戻り、夫概を打ち破ります。楚の昭王は闔廬が呉に戻ったので自分は楚の都である郢に復帰します。そして呉から逃げてきた夫概を堂谿に封じてやります。
そして楚は戦闘で呉に勝ったりします。

しかしながら当時の呉には伍子胥の他に孫武(兵法書、孫子の著者とされる。)という名将がおり、彼らの計略により、西で楚を破り、北で斉、晋を脅かし、南で越を伐ち、呉は大層勢いがよかったのです。

しかし、これからあと、伍子胥の言が容れられなくなる事態となり、彼の不幸な最後につながります。具合が悪くなりそうなところで上手に身を処すれば天寿を全うできたのかも知れませんが、それは范蠡のような生きる達人でなければ不可能なことなのでしょう。





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