2014年11月1日土曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(6)

范蠡が大金持ちになって、皆の憧れと尊敬の的になったところで”越王勾践世家”は終わっていません。すでに勾践の話は終わり、勾践死後子孫の代に至って越は衰退したことまで書いてあって、落ちはついている筈なのにです。

なお、范蠡の蓄財については貨殖列伝 第六十九にも記述があります。そこには会稽の恥をすすいでから、計然(范蠡の師だそうです。)の施策が七つあり、そのうち五つで越の本懐を遂げさせたが、残りの施策を自分の家に適用しよう、と言って陶(山東省)へ行き、朱公と称して交易にかかわり成功したことが書かれています。十九年の間に三度も千金を積み、そのうち二度まで貧しい友人や疎遠な親類に分け与えたとあり、「富めば好んでその徳をおこなう」者である、司馬遷に書かれています。この列伝の記述をもってしても並の男でないことがわかります。

さて越王勾践世家の記述にもどって、ここに一つの事件が起こります。末子が成人したころ次男が殺人をして楚に囚えられます。范蠡は
「殺人而死,職也。然吾聞千金之子不死於市」
”殺人で死刑になるのは当然だ。だが、千金の子は市場は死なないと聞いている”。
と言い、末子に大金を持たせ、出発させようとします。ところが長男が、長男である自分が行くべきだ、と頑張ります。行かせないなら死ぬ、とまでいいます。
范蠡は已むをえず、長男を出します。そして范蠡は書面をつくり長男に、荘生という人にこれ差し出して、荘生に一切を任せ、それ以上画策をするなと指示します。

長男は楚へ行き、荘生に書簡と千金をさしだします。荘生は「早く楚を立ち退きなさい、弟御が出獄できてもどうして出獄できたか問うてはなりません。」と長男に言います。ここで荘生は決して豊かな暮らしをしていませんでしたが、お金は終わったら返すつもりで、ただ依頼された証拠として金を預かっただけでした。夫人にこれは朱公の金で自分が急死でもしたら朱公に返せと指示しています。

長男が父の言ったことに従うのなら、ここで荷物をまとめて国に帰ってしまうべきです。それで万事うまくいったことでしょう。

しかし長男は楚にとどまり、荘生はそんなに尊敬されている偉い人とは思わず普通の人と思い、権勢のある貴人に別途自分が密かに持参した金を送ります。これも余計な画策で父の命令には反しています。

一方王の信頼の厚い荘生は、口実を設けて楚王に徳を修めるように勧めます。そこで王は大赦をするつもりで準備を進めます。

一方長男から金を贈られた貴人は大赦の準備に驚いて、長男に王は大赦を準備しておられると告げます。

長男は、それなら弟は自然に助かる筈で、なんの尽力もしていないと思っている荘生に渡した金が惜しくなります。そこで荘生に会いに行きます。そして弟は自然に許されることになったと、それとなく金を返してほしい意を伝えます。これはまさに父がやるなと戒めた画策のうちの愚策の最たるものです。

荘生は長男にお金を持って帰るようにさせます。しかし、荘生は欺かれたのを恥とし楚王に、今世間では、陶の大金持ちの朱公の子供が囚えられていて、朱公が王の左右に賄賂を贈ったから、大赦になった、楚の人民を憐れんでのことではないと噂しています、と奏上します。楚王は怒って朱公の子供を死刑にしたのち大赦を発します。

長男は結局次男の遺骸を持ち帰りました。
家族のものは悲しみますが、朱公(范蠡)は、泰然として自分は次男が殺されることを知っていた、(吾固知必殺其弟也!)と言います。長男は事業の困難を知り、財貨を棄てるのは重大事と思う。末子は生まれながらに富貴で財貨を蓄える苦しみを知らず、財貨を棄てることを軽んじて惜しまない。だから末子を使いにだそうとした。長男にはそれができないのだ、と言います。

范蠡は、長男から荘生が長男に言ったことを聞き、長男があとから荘生からお金を取り返したことを聞き、次男が大赦直前に処刑されたことを聞いてすべての経緯を推察したのでしょうか。

范蠡が非常に見通しのよい人間であったことがわかるエピソードにはなっています。全体の中で何が肝心なことであるかを見定め、それをはっきり見据えれば先は見えることを示しています。

いつもそういう風になるでしょうか?そう単純とは限りません。史記には知勇兼備の英雄が惨めな最後を遂げる例も沢山描かれています。この件でも次男の命を助けるという意味では范蠡は結局失敗しています。読む人にそういう様々なことを考えさせつつも、范蠡のものを見る目の確かさがここに描かれています。

逆に越王勾践世家の中で、越王勾践が呉を打ち破るまでの経過で范蠡は重要ではあるものの決定的に重要ではありません。大夫の種の方が重要な家来にさえ見えます。范蠡について描かれる主要部分は勾践を見限って去るところから、次男を失うところまでです。司馬遷はそれでも范蠡という生きる知恵をもつ達人を詳しく書きたかったのは彼を尊敬し、憧れていたからなのではないかと思います。





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