2013年7月25日木曜日

三国志、三国志演義 何晏(1)


魏書に何晏伝がある訳ではありません。
なぜ何晏を取り上げたかといえば、三国志演義を昔読んだ時に出てきた、どうでもよい脇役のこの男の名前が、後になって、新釈漢文大系第一巻「論語」(吉田賢抗 昭和三十五年)の冒頭の解説の中にあることに気づいたからです。
 この本の解説で挙げられた論語の注釈書の筆頭に「論語集解十巻」が挙げられて、“魏の何晏らが編集したもので、斉王の正始九年(248年)に帝に献上したものという。何晏らが漢代からの論語の注釈を取捨選択したもので……現在完存の注釈書としては最古のもので、中国では唐代まで、日本では奈良時代に輸入されてから、鎌倉末期まで論語を学ぶものはこれに拠らないものはなかった、”とあるのです。
 なお吉田賢抗さんの本で“斉王の”と書いてあるのは、曹芳は帝ではあったのですが、のちに司馬氏(司馬師、司馬昭)に廃されて何々帝という名前がついて無いからです。
 
おそらく今だって専門家はこの何晏の本を勉強するのでしょう。漢代の注釈は完存していないのですから、これを窺い知るにはこの本は重要な資料です。昔、習った漢文の参考資料のなかに、”馬融曰く”、”鄭玄曰く”、などとあって読むのに苦労したことを思い出しますが、この本から引かれていたのではないかと思います。
千七百年以上も以前の本で、今日まで伝わっている本の編者なのです。

吉田賢抗さんの本の記述を発見して、三国志演義に出ている何晏像とはちょっと違う人間像を考えないといけないのか、とも考えました。

まず三国志演義の中の何晏の描かれ方は以下の通りです。
 何晏の登場は第百六回で、立間祥介さんの訳(平凡社)では、「彼(曹爽)の食客は五百人を数え、中に五人、軽薄なことをもって互いに気心を通じあっている者たちがあった。すなわち、何晏、字は平叔」として軽薄な取り巻き五人組の筆頭で登場です。

何晏は曹爽にすすめて司馬懿を太傅(“天子の師”で名目上は偉いがこの場合は祭り上げ)とし、実権を奪うようにさせます。それで何晏は首尾よく取り立てられて尚書になり、曹爽と酒盛りの暮らしをします。

何晏はあるとき、管輅という易の名人に「自分は三公になれるか、」と聞き、さらに「このところ青蠅が数十匹、鼻の先に集まってくる夢を見るが何の兆しか」と聞きます。三公は司徒、司空、大尉で、位人臣を極めた地位に相当し、彼ははなはだ世俗的な願望をあからさまに示します。管輅には徳を積み、身を慎めと説教されます。

あるとき魏主の曹芳が、先帝(明帝)の墓参と巻狩りで城外へでることにになります。曹爽と彼の兄弟も曹芳のお供をし、曹爽の子分一同(何晏も一緒)も一緒に城外に出ました。忽ち司馬懿のクーデター勃発です。曹爽は先帝から委託された大任に背いているから兵権を取り上げるべし、というのです。
曹爽は意気地なくも、金持ちとして余生を安楽に暮らせばよいと政治をあきらめ、兵権を捨ててしまいます。
何晏はこのクーデターの時、一緒にいたのに曹爽に何のアドバイスもしていません。(酒盛り要員だっただけでしょうか?)

ところがその後、宦官の張当が曹爽一派にクーデター計画があったことを白状し、曹爽一派は全員捕まって三族誅殺の憂き目を見ます。哀れにも何晏も謀反計画の一味として捕まって一族まとめて斬られます。

軽薄な男で曹爽に取り入って、うまく立ち回って出世して、酒盛りして、最後に纏めて斬られたのです。
これでは千七百年以上も残る論語の注釈書を編纂した大儒のイメージとは大変な落差です。




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