2013年7月13日土曜日

三国志 蜀書;諸葛亮伝第五 (1)



諸葛亮伝の冒頭に(漢書に伝がある)諸葛豊の子孫であると書かれています。父親の諸葛珪は太山郡の丞であったが、諸葛亮が幼いころに亡くなり、従父である諸葛玄のもとに身を寄せたとあります。諸葛玄は袁術により豫章太守に任命されたが曹操が任命した太守に負けて豫章を出て、かねて親しかった荊州の劉表のところに身を寄せたとあります。劉表は三国志演義にも出てくる荊州の支配者です。諸葛玄は太守に任命されるほどであり、荊州の支配者と友人だったのですから、彼の家柄はそこそこのものだったのだろうなと思います。

諸葛玄が亡くなると、みずから農耕に携わったとかかれています。おそらく玄が亡くなったのは諸葛亮が二十歳前後のころと推定されるので、これから劉備に仕えるまでの七年は草廬暮らしだったです。諸葛玄になにがしかの資産を譲り受け、それほどには貧しくない暮らしをしていた姿が目に浮かびます。
しかし、ただ農耕に明け暮れる草廬暮らしなら、わざわざ劉備が三顧の礼を以て迎えるほどの名声は得られません。なぜ三顧の礼なんだ、となります。


さて彼は三顧の礼により実社会に乗りだすことになります。

その三顧の礼についてですが三国志演義だと、
單福というものが劉備を訪ねてくる。
單福は優秀ですぐに手柄を立てる。
單福は偽名で実は徐庶という男であることを程昱が曹操に教える。
曹操は徐庶の母に呼び寄せの手紙を書かせようとするが失敗。
程昱が偽手紙を作りだし徐庶をおびき出すことに成功。
その時徐庶が劉備との別れ際に諸葛亮を推薦して母のもとへ行く。
という次第で三顧の礼に繋がって行きます。程昱が曹操に單福は徐庶だと教えますが、なんで程昱にそんなことがわかるのかがちょっと問題です。
しかし、劉備のもとへ来てすぐに大きな手柄を立てた徐庶が推薦したのだから、推薦のインパクトが大きいです。しかもこれに前振りがあって、司馬徽が伏龍あるいは鳳雛が天下を安んじられる人材として劉備に教えていて、徐庶が諸葛亮が伏龍だと教えるのです。これではすべてが作り事であんまり現実的でないです。

一方正史の蜀書(井波律子訳)だと、
徐庶は劉備に会見した。
劉備は徐庶を優秀な人間と見た。
その徐庶は諸葛亮を推薦した。
劉備は連れて来てくれないかと頼んだ。
徐庶は、諸葛亮は自分からいかなければ会ってはくれないと回答。
ということから三顧の礼になります。こちらの話だと、当時の知識人の評判を聞いて劉備が出かけることになっています。彼がある程度の家柄の人間で、優れた人材と認められて評判になったが故に、劉備に三顧の礼で迎えられたのだ、と考えられます。してみれば彼は知識人社会において付き合いがあって能力、見識が評価されるだけの機会があったということです。

それにしても大学も雑誌もテレビも学閥もない時代で、人材についてどういう情報の流れ方をし、評価されるのか、あるいはその評価はどれほどの意味があるのかというのは不思議だし興味がありますね。




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