諸葛亮の人柄については、公平無私で周囲から非常に尊敬されていたようです。
これではあまりにありきたりでつまらないことを書いているようですが、周囲の人がこれだけのことを言ってくれる人はあまりいないと思います。
我が身に引き比べるのは、と申しても我が身は天下国家に関係ないし、あまりに桁違いで烏滸がましいですが、我が身を考えたって、関わりあった狭い世間でどの程度のことを言われるかといえば、そもそも話題にならないか、大したことのない評価とおもいます。
蜀の成都の人であった張裔は「公(諸葛亮)、賞は遠きを遺さず、罰は近きに阿らず、爵は功なきを以て取るべからず、刑は貴勢を以て免るべからず。これは賢愚の僉(みな)その身を忘るる所以のものなり。」と常に諸葛亮をたたえていたそうです。(蜀書
張裔伝)
楊戯は「季漢輔臣賛」を表し、その中で諸葛亮について「忠武侯(諸葛亮)は英明高邁であり…武を整え文を斉え、徳教を敷陳べ、物を理め風を移し、賢愚心を競い、僉(みな)その身を忘る」と書いています。(蜀書
楊戯伝)
「季漢輔臣賛」は陳寿が列伝を書くときの人選に参考になったようで、楊戯が称賛し記述したものの多くは蜀書に記載する人物である、と書いています。しかしこの蜀書にも取り入れられている「季漢輔臣賛」の内容をみると概ね当たり障りのない賛辞で、ここで褒められてもそんなにありがたくないです。
以下は左遷された人の話です。
廖立は自分を高く評価し、官位について不平不満の結果人を誹謗中傷し、それを知った諸葛亮の上表により職を免ぜられ、庶民に落とされて汶山に流されました。諸葛亮の死を聞いた廖立は、蜀書によれば「垂泣して歎じて曰く吾終に左袵(野蛮人)と為らん。」、つまり涙を流して俺はとうとう野蛮人でおわりか、と嘆いたのです。(蜀書
廖立伝)
李厳は兵糧を諸葛亮に供給が間に合わなくなって諸葛亮の軍を呼び返し、そのあとで兵糧は足りていたのになぜ軍を返したかと驚いたふりをして、兵糧供給責任を果たせなかった責任のがれをし、進軍しなかった諸葛亮の責任を問題にしようとしました。その結果、諸葛亮が上表し、李厳は罷免されて梓潼郡に流されました。当時李平と改名していた彼は、「平は亮が卒するを聞き、病を發っして死す。」ということになります。常日頃彼は諸葛亮が自分を復活させてくれることを願っていたが後継者では無理と思い、激しく憤って死んだそうです。(蜀書
李厳伝)ただし、三国志の記述をみると、もともとは長雨で兵糧の輸送がつながらなかったので李厳は諸葛亮に連絡し、諸葛亮も承諾して兵を返したという説明なので、なぜ李厳はあとでくだらない小細工をしたのかは私には謎です。
廖立も李厳も自分に非があって処罰されたことは認めています。処罰が不当で、諸葛亮が無能で魅力のない人なら諸葛亮にもう一度使ってもらいたいという希望は持たないと思います。諸葛亮に認めてもらう、ということが官位が上がるとかとは別に、その人のプライドになり得る人なのかと思います。
以下は処刑された人の話です。
以下は処刑された人の話です。
街亭の敗戦の責任により誅殺された馬謖は死にあたって諸葛亮に手紙を送り、「明公(諸葛亮)は謖(自分)を子のように視られ、謖は明公を父のように視ておりました。どうか鯀を殺して禹を引き立てた義をお考えになってください。平生の交わり此においてそこなわないようにしてくだされば、謖は死すとも黃壤(冥土)で恨みません。」(蜀書
馬良伝)と書いております。
舜は鯀に黄河の治水を担当し、五年やって成果が出せなかったので鯀を死に追いやったのです。(史記
夏本紀第二)(私のような)無能な人間は誅殺して、もっと優秀な人材を挙げて下さい、というところでしょうか。
彭ヨウ(羊の下に永))は劉璋の時代に刑を受けて労役囚になりましたが劉備が入って来たとき、劉備に使ってもらおうと、龐統を訪問してまず龐統に評価されました。彭ヨウは法正とは旧知だったので、龐統と法正が一緒に劉備のところへ連れていってくれて紹介してくれました。劉備にも評価され、抜擢されました。
しかしこれから先がよくなくて、囚人から一躍抜擢されたので思い上がり、態度が大きくなって顰蹙を買うようになったのです。
それで左遷の憂き目にあうのですが、この時に馬超のところへ行き、不満のあまり微妙なことを言います。「卿爲其外、我爲其內、天下不足定也」、つまり卿が外を為し、我が内を為せば天下は思い通り」というのです。
馬超が驚いてこれを報告した結果、彭ヨウは死刑になります。殺される前に彼が諸葛亮に送った手紙が蜀書にあります。その中で「…至於內外之言、欲使孟起立功北州、戮力主公、共討曹操耳。」とありますので、“内と外といったのは、馬超(字は孟起)に北方の州で功を立てさせ、主君に力を合わせ、共に曹操を討とうと言ったのです。”ということですが、これはちょっと苦しい言い訳ですね。その後「…足下、當世伊呂也、宜善與主公計事、濟其大猷。」と言っています。“あなた様は当世の伊尹、呂尚にもあたる人でよろしく主人と計って大事を成し遂げて下さい。」とあります。
馬謖も彭ヨウも、もう自分は死罪に決まっているけれど、それでも諸葛亮には何かを訴えたかった、あるいはわかってもらいたかったのでしょう。
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