劉備が亡くなった時に、諸葛亮宛に魏の諸臣から、すなわち司徒の華歆、司空の王朗、尚書令の陳羣、太史令の許芝、謁者僕射の諸葛璋のそれぞれから手紙が来て、いずれもが天下の大勢を論じて国を挙げて魏に下るように勧めてきました。
これは名士からの忠告というよりは、劉備が亡くなり、劉禅があとを継いだ時点で、人心が不安になる要素があるところで、こうした勧誘により更に動揺が走ることを期待した可能性もあります。
諸葛亮はこれらに返事を出さず、「正議」(諸葛丞相集)を表して群臣に示しています。主旨は正義が勝つ、という議論です。
項羽は徳義によらず旗揚げし、そして帝王ほどの力を持ちながらついに敗けて殺され、長く後世のいましめになった。魏もその類なのにそれに続いている。(魏の)二、三の長老が指図されて手紙をよこしたが、それは陳崇と張竦が王莽を賛美した趣きがある。(陳崇と張竦のゴマすり文書については前に「漢書;王莽伝第六十九(1)」に書きました。)王莽の四十万の大軍は数千の光武帝の軍に敗れている。道義をもとに悪人を討伐する場合、人数の多寡は問題にならない。曹操は張郃を数十万の軍で救援しようとしたが、失敗し、やっと脱出できただけで漢中の地をうしなった…
なお、ここでちょっと脇道にそれますが、筑摩書房の井波律子さんの三国志、蜀書の訳では諸葛亮の「正議」の訳の中で項羽について“皇帝の権力を持ちながら結局釜ゆでの刑を受け…”となっています。しかし項羽が釜茹でになったとは聞いたことがない話です。原文は“湯鑊二就キ”で、この部分について植村清二さんはその著「諸葛孔明」(筑摩書房)において湯鑊のうしろに括弧をつけ誅戮と書いておられます。たぶん植村さんの書かれていることが正しいと思うのですが…
この「正議」の主張は部下の士気を鼓舞するために述べた面も勿論あるとは思いますが、諸葛亮自身も、曹操が後漢の王朝内で勢力を伸ばす中で、彼を憎んで倒そうとして、逆に倒された人々と同じように、曹操を簒奪者という目で見ていたのではないでしょうか。また曹操の軍の略奪、殺戮を民がおそれていたこと、劉備が人望があったことを知っていた当時の人間の一人として、全力を挙げて漢朝に繋がる劉備を助けたかったのではないでしょうか。
王朝が交代するのは当然、簒奪の何が悪い、という見方もある現代人には曹操を否定する強い理由がなく、上記のような諸葛亮観はつまらないものに見えるかも知れません。
しかし、逆に単純に簒奪の何が悪い、というだけだとでたらめに陥るのではないでしょうか。
司馬懿、司馬師、司馬昭が力を伸ばしていくときに、これに不満と抱いて、反抗を試みて滅亡したものが何人もおります。
たとえば毌丘儉という将軍は司馬師を魏帝に対する不忠として非難し、文欽とともに反乱を起こしますが結局敗れて死にます。(三国志
魏書
王毌諸葛鄧鐘伝第二十六)この将軍について習鑿歯は、毌丘儉は(魏の)明帝の遺命に感激して戦いを起こした、行動は不成功だったが忠臣である、と言っています。
習鑿歯のような見方はできると思います。
しかし簒奪の何が悪い、という人からみれば、何も曹氏に義理立てすることはない、司馬氏が権力を奪い取るならそっちに着けばよいのだ、ということになりかねません。これは甚だ寂しい君臣関係(あるいは人間関係)です。
しかるが故に、古くさいように見えて、諸葛亮の劉備、劉禅に対する態度に人間関係のよさを感じてそちらに惹かれるのです。
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