司馬懿のクーデターの時、何晏はいったい何をしていたのでしょう。
正史でも天子が明帝の墓参に出られる時、曹爽や兄弟たちがお供します。ただし三国志演義と異なり、何晏らの五人組(何晏、鄧颺(とうよう)、李勝、丁謐(ていひつ)、畢軌(ひっき))はこれにお供をしたとは書いていません。
そして帝の城外への外出を狙って司馬懿がクーデターを起こすのは正史も同じです。司馬懿のクーデター趣意書が天子への上奏文として届けられ、それを曹爽が受け取ります。
桓範というものがいて、曹爽にもっとも近い五人組(何晏、鄧颺、李勝、丁謐、畢軌)ではないのですが、この時城内から脱出して、曹爽に許昌へ若い天子を移し、都の外にいる兵を募るように勧めました。(ただし彼は初めはクーデター直後の司馬懿の役職の誘いに乗ろうとしたのですが、息子に説得されて脱出したのです。)なお、三国志演義でも桓範は登場し、曹爽を説得します。
しかし、曹爽はその案を斥けます。桓範の言う通りやれば洛陽の城内にいる彼の家族はそのまま人質になるし、かならず司馬懿と一戦やらなければならないことになりますから怖かったのでしょう。目先の平和と安全にしがみ付いたのです。
なお、正史ではないですが、「世語」などの記録には桓範の他に、魯芝というものが城内から兵営の騎兵をつれて脱出して曹爽の所へいったとか、あるいは楊綜というものが曹爽の辞職を“処刑場へ行かれるのか”と言って止めたとかの記述があります。しかしこの「世語」のようなものにも、五人組の誰かが当日曹爽に何か言った記録はないみたいで、註にも引用されません。
何晏以下の五人組は実は当日曹爽のそばにいたが、事態に動転し怖くてなにも言えなかったか、家あるいは役所にいたが命懸けで城を脱出する気もなく、そのまま何もしなかったかが疑われます。
とにかく何晏はこの日、曹爽のために何も働いていません。
臣下としては不忠、一個の人間として見たらはなはだ侠気に欠けます。
論語の解釈はしたけれど、それは自分の生きるソサエティーの中での文飾用であり、身についている訳ではないようです。その上、曹爽の失脚の結果が自分達がどうなるかの政治的な見通しにも欠けているようです。
論語の解釈はしたけれど、それは自分の生きるソサエティーの中での文飾用であり、身についている訳ではないようです。その上、曹爽の失脚の結果が自分達がどうなるかの政治的な見通しにも欠けているようです。
この場面においても何晏はいいところがありません。
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