2013年7月13日土曜日

三国志 蜀書;諸葛亮伝第五 (2)



諸葛亮は自らを管仲・樂毅に擬していたというのはよく知られています。
なぜ管仲と樂毅なのでしょう。

史記では管仲の伝記は管・晏列伝第二の中に晏嬰の伝記とともに並べられ、名宰相として描かれています。樂毅は樂毅列伝第二十に弱小国の軍を率いて強大な国を打ち破った名将として描かれています。
どちらも英明な君主のもとで働き、管仲は一方は混乱した国の秩序を回復し、民生を充実し、君主の起こした戦争に大義名分を持たせるように図りました。樂毅は弱小国燕が強国斉とことを構える前に、同盟の包囲網を作り、さらに軍事的才能により強国斉を打ち破り大いに国威を上げています。

大志を抱く人間として、天下の情勢をみて今後のあり方について考える時、自分の将来の役割をそのような人達の仕事に見たかったのでしょうか。

彼が生きている混乱した世の情勢で、まず彼は英明な君主をたすけて政治力と武力で秩序を回復させなければ、と考えていたとしたら、彼の意識は、裴松之の言う”皇族の英傑を補佐して、衰微断絶の状況にある王朝を立て直し、復興することを自己の責務とした”という所に至るのは自然と思います。
その他には、当時の漢室の流れをくむ軍閥の大将として名も知られ、人望もあった劉備がわざわざ三度も訪問してくれて、話も合って感激した、ということもあるでしょうが。

当時の情勢の流れからいえば政権の正当性などを深刻に考えず栄達を求めたいなら曹操のところへ行くことです。情勢が落ち着いたところで石韜や孟建は北に行っています。
石韜は郡守、典農校尉、孟建が涼州刺史になっています。徐庶(彼は当陽の敗戦で母が魏に捕えられやむを得ず魏に行った。)が右中郎将、御史中丞になっています。もっとも諸葛亮は徐庶と石韜については、どうしてあの二人はそんなに用いられないのだろうかと慨嘆した、と「魏略」にあるそうです。




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