2013年7月9日火曜日

三国志 蜀書;先主伝第二 (2)



もう一つの劉備の特色は君臣の強い信頼関係です。
関羽は曹操に一度降伏し、曹操から厚遇を受けながら、結局劉備のところへ戻って行きました。張飛や趙雲なども、曹操や孫権の下にいるよりは困難で、先の見えない時期がずっと続いたのに劉備に忠誠を尽くしついていきました。

諸葛亮も同様で困難にもめげず劉備のために頑張ります。また諸葛亮は、劉禅の代ならうまい口実を作って簒奪することが可能な立場だったはずです。現に李厳に、九錫を受け称王(たとえば曹操は魏王になっています。)することを勧められています。これは暗に蜀をとったらどうですか、というに等しいです。しかし諸葛亮は李厳にそんな気はないことを明確に回答しています。彼は劉備への忠誠心の故に、劉備の遺子に対しても誠意を尽くしています。

黄権という、もともと蜀で劉璋に仕えていた男がおりました。劉備が蜀をとった結果、黄権は劉備に仕えるようになりました。劉備が帝号を称してから呉を攻めようとした時に、黄権は蜀の水軍は川下に向かって攻めるので進むのは容易だが、退くのが難しい問題を挙げ、自分を先駆けとして相手の力を試させてくれ、と劉備に提案しました。しかし入れられず、江北の軍を指揮して魏を防ぐ方に回されました。劉備は呉に大敗北を喫しました。その結果黄権の軍は孤立し、彼は魏に下りました。
その時に担当官吏が黄権の妻子の逮捕を劉備に提案しましたが、劉備は、自分が黄権を裏切った、黄権が自分を裏切ったのではない、として家族は以前同様にあつかいました。
黄権の方も、家族が処刑された、ということを魏に下った蜀の人間が言ったとき俄かにそれを信じませんでした。文帝が黄権に喪を発表せよ、と詔したにも拘わらず、彼は劉備、諸葛亮と信頼しあっている仲で情報はまだ疑わしいので待ってください、と答えています。また、劉備が亡くなった時、魏の文帝に他の臣下は祝賀を述べましたが、黄権は加わりませんでした。
司馬懿が諸葛亮に手紙を送って、”黄公衡は快男子で、いつも貴方のことを賛美し、話題にしております。”と伝えたそうです。黄権自身も人物であったと言えます。

このような君臣の信頼関係は曹操や孫権よりも強いものと思います。曹操に比べ、戦でも政治力でも劣ったかもしれない劉備ですが、人間的魅力が大きい人だったのではないでしょうか。



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