高貴郷公の死に関連して出てくる愚かしい行動の結果、一族皆殺しにされた人は当時尚書だった王經という男です。
高貴郷公紀に引用されている「漢晋春秋」の記載によれば皇帝(高貴郷公)は実権が日に日に王室から離れて行くのが怒りに堪えず、侍中の王沈、尚書の王經、散騎常侍の王業を召し寄せて司馬昭を誅殺しようと提案します。これに対し王經は、司馬氏の一門が実権を握って随分時間がたち、司馬氏のために働くひとばかりだし、一方陛下は兵員、武器、甲冑も整えられない、とても無理だと反対します。しかし皇帝は用意した勅命を投げつけて、もう決めたことだ、と宣言し皇太后のところへ参内します。
王沈と王業は大急ぎで司馬昭に注進に行きます。そこで司馬昭は備えを行いました。
なお、ここで皇太后のところへ参内というのは不思議です。ことを起こしたらすぐにやる必要があります。ここで参内して何か具申すれば内容は他の人に漏れます。ぐずぐずしていたらただでさえ成功がおぼつかない誅殺計画が、さらに危うくなります。誅殺してしまってから事後報告して形式を整えれば、とは考えなかったのでしょうか。
さて高貴郷公紀に引用されている「世話」によれば、
「王沈、王業馳告文王、尚書王經以正直不出、因沈、業申意」
井波さんの訳によれば、
“王沈と王業は司馬文王のもとにかけつけ報告したとき、尚書の王經はまっとうな人間だったので退出せず、王沈王業に頼んで(司馬文王に)気持ちを伝えさせた。”
‘申意’とはどんな気持ちを伝えてくれと頼んだのでしょう。諸夏侯曹伝第九の「世話」の引用の記述を見るとその意が推察されます。
「王業之出、不申經(竟)[意]以及難。經刑於東市、雄哭之、感動一市。刑及經母、…」
井波さんの訳によれば、
“王業は御所の外に走り出て(司馬文王のもとへ急を知らせに駆けつけたが、後に残った)王經の気持ちを説明しなかったために、王經は災禍にあってしまったのである。王經が東の市場で処刑されたとき、向雄は彼のために慟哭し、市場中の人を感動させた。処刑は王經の母にまで及んだ。…”
です。
つまり、司馬氏への連絡に一緒には行けないが、王經は司馬氏にたてつく気はない、皇帝を止めるのでよろしく、ということでしょうか。
「晋諸公賛」では、
「沈、業將出、呼王經。經不從、曰「吾子行矣!」」
です。訳では
“王沈と王業は宮殿の外へ出ようとしたときに、王經を呼んだが、王經は従わず、「あなたたちは行きなさい」といった。”
です。この記述でも王經は王沈と王業を止めていません。
皇帝は既に事を起こしてしまって、取り消しは効きません。王經がもし皇帝に忠実であろうとするならば、王沈、王業を斬ってでも皇帝に従うべきだったでしょう。
王沈、王業に気持ちを伝えてもらおうというのは、まるで保険をかけようとしているような行いで、そんなに立派な振る舞いには見えません。
逆に言えば、先のことは誰にも確実にはわかりません。現実にこの瞬間に居合わせて、司馬氏にご注進に走って命は助かろう、とするのも100%安全どうかは分かりません。皇帝に誰か強力な助っ人が現れて、司馬氏は滅んでしまうかも知れません。そうなったら皇帝を裏切って司馬氏へ駆け込んだ王沈、王業は本人たちはもとより、一族が皆殺しになったでしょう。彼らとて、より安全な方をとったとはいえ最低限のリスクはとったのです。
繰り返しになりますが王經がもし皇帝に忠実たらんとするならば、王沈、王業を斬って皇帝と共に討って出るべきだったでしょうし、もし身の安全を図ろうとするなら、王沈、王業と一緒に司馬昭のところに駆けつけるべきだったでしょう。
皇帝のすでに決めてしまった誅殺計画に反対しつつ、一方では王沈、王業を止めもせず、気持ちを伝えてくれと頼むのは汚い振る舞いです。王業が気持ちを伝えたとしても、その心根を憎まれて結局殺されたのではないか、と思ったりします。
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