2020年4月18日土曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(2) -呂氏、薄氏-


外戚伝ではまず呂氏が挙げられています。高祖の妃である呂后についてはすでに平成27(2015)6月から平成28(2016)2月にわたり、13回にわたって書いております。その中には外戚伝の記述も入れています。高祖劉邦の妃で漢書では「呂后為人剛毅」とあります。しかしすでに書いたように呂后という人は剛毅というより、冷酷残忍な人です。
彼女は呂氏の繁栄を願ったのでしょうが、その強権的やりかたは、結局呂氏以外を全部敵に回すことになり、彼女の死後一族は根絶やしにされました。呂氏の場合、呂后が呂氏の人間も沢山取り立てた、という意味で外戚の齎す弊害を示していますが、根本的には外戚という問題ではなく呂后という女の弊害であったと見ることもできます。

次に扱われるのは呂氏が滅んだあと帝位についた文帝の母の薄姫です。薄姫の父親が自分の主人家(魏氏)の王女の魏媼(ギオン)と通じて薄姫を生ませたのです。当時は秦末の混乱期で、魏の国では魏豹(ギヒョウ)という者が立って王となりました。この時、魏媼は自分の娘(薄姫)を魏の宮中に入れます。魏豹と薄姫がどの程度の血縁関係かは外戚伝ではわかりません。
さて混乱は間もなく漢(劉邦)と楚(項羽)の争いになってきました。魏豹は漢についていたのですが、許負という者が薄姫を見て天子を生むに違いないと言ったので、気が変わりました。薄姫の生む子が天子になれるなら自分が天下を取れると考えたようです。ちょっと愚かです。もし魏豹自身が天下を取れるなら許負は魏豹に向かって、あなたは天子になれる相をしている、とかいうべきでしょう。魏豹は自分が天子になれなくて、薄姫の生む子が天子になるなら、その子は自分の子供ではないかも知れないことに思い至らなかったのでしょうか。
とにかく魏豹は漢に背いて中立し、楚と和を通じます。その結果は惨憺たるもので魏豹は漢の虜になり、薄姫は宮中で織物を織る所(織室)に送り込まれてしまいます。織室送りは罪人女の扱いだそうです。しかし魏豹の死後、織室の薄姫が高祖の目に留まり、後宮に入れられます。
薄姫の運がよいのは男の子(八歳で代王に立てられた。のちの文帝)を生んだあと、高祖の寵愛も特別厚くなかったのです。その結果、高祖がなくなったあと、呂后の怨みの対象になりませんでした。戚夫人のように惨殺されることもなく、他の寵愛を受けた女たちのように宮中に幽閉されることもなく、代王である自分の子に従って代へ行き、代の太后となることができました。この経緯からすれば薄姫には大きな後ろ盾となるような実家はありません。
呂后が死に、呂氏が滅んだあと誰を後継者にするかが議論されますが、
大臣議立後,疾外家呂氏彊暴,皆稱薄氏仁善,故迎立代王為皇帝」
という記述がでてきます。
すなわち、大臣たちは後継者を議論し、外戚呂氏強暴を憎み博氏の仁善を称え、そこで代王を皇帝にした、というのです。代王の仁善ではなく、薄氏の仁善を称えて皇帝を選んでいるのです。呂后に懲り懲りして、権力を振り回しそうな実家もなく、本人もおとなしくて野心がなさそうな母をもっているから代王を担ごうということになったのでしょうか。

それでも薄姫の弟は軹侯(シコウ)となりました。すでに死んでいる父は追尊して霊文侯とし、会稽郡に園邑(墓守の邑)がつくられました。霊文夫人(つまり魏媼)は檪陽(レキヨウ)に葬られていたので、その地に園邑を作らせています。
さらに薄姫の父親は早く死んで、魏媼の家すなわち魏氏が薄姫の養育に努めたので褒賞があったようです。
大臣たちが望んだように薄姫および薄姫の外戚が何をしたということはないですが、外戚および関係者は恩恵を被っているわけです。





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