2018年9月23日日曜日

論語(24); -君子と小人(ix)-

季氏第十六の6侍於君子“なることばが出てきますが、これは君子に侍する時の心掛けの話だし、君子というのも”目上の人“という意味合いのようです。

季子第十六の7
「君子有三戒:少之時,血氣未定,戒之在色;及其壯也,血氣方剛,戒之在鬭;及其老也,血氣既衰,戒之在得。
とあります。
“君子には三つの戒めがある。若い時は血気が定まらず、男女の色情について戒めなければならない。壮年期には血気が盛んで、争い戦うことを戒めなければならない。老年期になると血気は衰え、利欲を求めることを戒めなければならない。”

血気というのが分かるようでわかりません。色情、争い、利欲の追求の抑制という戒めはわかりますが、血気が定まらない時に色情に気をつけろとか、血気が衰えると利欲に迷うというのは何か違う、という感じがします。
朱子の「論語集注」には范祖禹がこの部分を論じたことが引用されています。すなわち、“血気は聖人と普通の人で異なることはなく、異なるのは志気である。血気は衰えることがあるが志気に衰えない。若い時は定まらず、壮年で強くなり、老いて衰えるのは血気であり、色を戒め、争いを戒め、利欲を戒めるのは志気である。君子は志気を養うから、血気に動かされず時を経て徳も高くなる。“というのです。
そういうことなのか、と一応は思いますが、論語の解釈としてそれが正しいのか疑問に感じます。

季氏第十六の8に君子と小人を比較した以下の言葉があります。
「君子有三畏:畏天命,畏大人,畏聖人之言。小人不知天命而不畏也,狎大人,侮聖人之言。
君子には三つの畏れ(はばかり)がある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないで畏れず(勝手に振る舞い)、大人の寛大さに狎れて失礼を働き、聖人の言葉を馬鹿にする。“

ここで天命は、古註では順吉や逆凶で運命のようなものだったらしいです。今、私が天命という言葉を聞いて思い浮かべるのもそうしたものです。新註では天が人やものに与えた正理なのだそうです。天からは運命を授かってしまうのですが、それは碌命で、もう一つ人の使命として授かる道徳、徳命があり、君子はそれを自覚し、実践するものである、ということらしいです。
確かに何者も恐れず、何をどう思おうと個人の勝手という考え方は、自分の好悪、利害の主張の正当化に結びつく危険があります。これでは確かに小人ですね。

季氏第十六の10には次の記述があります。
「君子有九思:視思明,聽思聰,色思溫,貌思恭,言思忠,事思敬,疑思問,忿思難,見得思義。
“君子には九つの思う事がある。視る時は見誤りなくはっきり見たいと思い、聴く時は誤りなく聴き分けたく思い、顔つきは穏やかでありたく思い、容貌はうやうやしくしたく思い、言葉は誠実でありたいと思い、仕事は慎重でありたいと思い、疑わしきは問うことを思い、怒りには腹立ちまぎれに対応したあとの後難を思い、利得に直面したら道義にかなったものであるかを思う。”

君子とは、慌てて粗忽な対応をしないよう、恨みを招かないよう全て慎重に振る舞う人、ということでしょうか。君子でなくても処世の仕方としてはそうあるべきでしょうね。





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