2018年6月16日土曜日

論語(23); -君子と小人(viii)-

衛霊公第十五にはまだまだ君子についての記述があります。

32では
「君子謀道不謀食。耕也,餒在其中矣;學也,祿在其中矣。君子憂道不憂貧。」
とあります。“君子は道を得ようと苦心するが、食を得ようとはつとめない。食を得ようとして耕していても飢えることがあるが、学問をしていれば自ずから俸禄を得られるようになる。君子は道を得られないことを心配するが、貧乏することは心配しない。”と言っているのです。

一所懸命勉強すれば碌にありつけるというテーマは、為政第二18のやりとりと共通するところがあります。為政第二18はまず子張が碌を得るにはどうしたらよいか聞いています。
どうしたら俸給を貰える地位に就けるかとはきわめて世俗的な質問です。これに対する孔子の回答は、就職活動成功法ではなくて、むしろ地位を得たあとのふるまいに当てはまりそうなことを言っています。
結局回答は言動を慎重にせよ、ということになります。そして主君に疎んじられたり、上司、同僚から軽蔑されたり憎まれたりしないようにすれば碌は自然に入ってくるようになる、と孔子は言います。

この衛霊公第十五の32の説くところは為政第二18と異なり精神論的です。しかし私には二重の意味で納得いく回答とは思えませんでした。
一つは学問観が、為政第二の18同様に学問に努めることが俸給を得ることにつながる、という甚だ功利的なものであることになってしまうことです。しかもここで田んぼや畑で苦労しても不作で駄目な時は駄目になる、というのはそうでしょうが、それでは学問すれば、必ず道が得られるのでしょうか?
もう一つは現実に竹簡や木簡を読んで頑張ったとして、それだけで採用されて食べて行けるようになれるでしょうか。その他に自身の平素の行いが問題というかも知れません。しかし例えば顔回は、孔子が彼ほど学を好む者を聞いたことがない、とほめ、また一を聞いて十を知る、と感心しています。しかし四十で没するまで彼を招聘し、腕を振るわせようとした人があると聞きません。

一方で、君子たる者は貧乏を気にしない、と言います。そして貧乏を気にせず学問だけに努めるというのは否定されていません。だから顔回は否定されてはいないです。しかし自分一人だけならまだしも家族がいて生活に窮しては辛いと感じるのが普通です。

孔子の教えは、学問に努めなさい。努めれば、立派な人間になれ、その上よい職が見つかるかもしれない。しかしうまく行かなくても君子なら貧乏は苦にしない筈だ、ということになりますが、これでよいのでしょうか?

衛霊公第十五の34には
「君子不可小知,而可大受也;小人不可大受,而可小知也。
とあります。“君子は小さい仕事には用いられないが、大きい仕事を任せられる。小人は大きい仕事は任せられないが、小さな仕事にはつかえる。”
もし有能無能をいうならば、有能なら大きい仕事でも小さい仕事でも上手にこなし、無能なら、小さな事も大きな事も駄目だ、ということにならないでしょうか。


それともここでは君子は大きな仕事しかできない、ということに主眼があるのでしょうか。あるいは大きな仕事にしか関心のない人物なのでしょうか。そのどちらでも特に褒めるような話ではないと思うのですが。





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