2015年2月22日日曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(4)


前回に書きましたように、白起の上党郡攻撃は四十八年十月でした。
応侯が秦王に講和をすすめ、秦が撤兵したのは正月とかかれています。ということは四十九年と考えられます。ところがなんと四十九年九月に秦はまた出兵し、趙の都、邯鄲を攻撃します。それなら正月の撤兵の是非を問われそうですが、そのような話は史記には出てきません。

なお、この時の将は王陵というもので、白起は病気のため出陣に堪えなかったそうです。
その後の文章が不思議です。
四十九年正月,陵攻邯鄲,少利,秦益發兵佐陵。陵兵亡五校。」
です。
野口さんの訳によれば
”四十九年正月、王陵が邯鄲を攻めたが、あまり有利でなかった。秦はますます兵を発して王陵を佐けた。しかし、王陵の軍は五人の将校をうしなった。”
ということです。
これでは年の記述が辻褄が合わないのです。これはどうしたことでしょう?

さて王陵が失敗したときに白起の病気が治ります。この後の経過を考えるのなら、こんなところで病気は治らない方がよくて、そのまま寝ていればよかったのです。ここから急速にダメな方へダメな方へと白起は行動します。

秦王は王陵が勝てないので、白起を王陵に変えようとします。
ところが白起はこの遠征に反対します。諸侯からの援軍が来ているし、そもそも諸侯は秦を長きにわたり怨みに思っている、と言います。さらに、まえに(白起がやった戦で)長平で勝った時に秦の兵もなかば以上死んでいてこちらも疲弊している、と付け加えます。
それでも秦王はみずから出陣を命じ、あるいは応侯に懇請させたのです。しかし白起は病気と称してでてきません。
確かに白起は辛い立場です。勝てそうにないし、負けたら処罰されそうです。万一勝っても、今度は思い上がっているとか、謀反を企んでいるとか讒言されそうです。
さりながら、君命に背いて家に立てこもるのはどう見ても下策です。

このようなときの対処の仕方の一つは他国への亡命です。しかしこのブログの白起(1)で書いたように、
魏の華陽(河南省)を抜き、三晋(韓、魏、趙)の将をとりこにし、斬首が十三万!
趙の將、賈偃(カエン)と戰い,其の士卒二万人!を黄河に沈めた。
韓の陘城(ケイジョウ)を攻めて五城市を抜き、斬首五万!

などといったことをやっています。そのうえ直近では白起(2)で書いたように趙に勝って降伏した趙の兵四十万人を騙して 阬(あなうめ)にして殺したとあります。
白起は秦から亡命して他国に安住の地を見出すのは容易でないはずです。彼自身それに気づいていてもおかしくありません。





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