白起は大手柄をたてました。しかし、大手柄と大いなる名声が嫉妬と疑惑を招き、身の危険を招く例は少なくありません。
史記の記述によれば昭王の四十八年の十月に秦は再び上党を制圧します。不思議なのは、この時上党には誰が住んでいたのでしょう。先に王齕(オウコツ)に制圧させた時、上党の民はみな趙へ逃げたはずです。上党の民はまた戻って来たのでしょうか?しかしその地はすでに秦軍が抑えているはずなのです。
とにかくまた上党が攻略され、この時の上党攻めは王齕と司馬梗(シバコウ)が担当します。
恐れをなした韓と趙は蘇代に命じて、秦の宰相の応侯に以下のように吹き込みます。
「...雖周、召、呂望之功不益於此矣。今趙亡,秦王王,則武安君必為三公,君能為之下乎?雖無欲為之下,固不得已矣。」
野口さんの訳によれば
”...あの周(周公旦)、召、呂望(太公望)の功績もこれ以上のものではありません。いま、趙が滅びて秦王が天下の帝王におなりになれば、武安君(白起)が三公(周代なら太師、太傅、太保で天子の師、 秦、漢なら丞相、大尉、御史大夫で、宰相、軍総司令官なみ)になることは必定です。あなた(応侯)は、武安君(白起)より下位になることに我慢できますか。いや、下位になることをおのぞみにならなくても、これは、どうしてもやむをえないことです。”
と嫌なことを並べます。この通り言ったかどうかは知りませんが、応侯だってその懸念はもっているはずで、うまく言えば通じる話ですね。
更につづけて
「秦嘗攻韓,圍邢丘,困上黨,上黨之民皆反為
趙,天下不樂為秦民之日久矣。今亡趙,北地入燕,東地入齊,南地入韓、魏,則君之所得民亡幾何人。故不如因而割之,無以為武安君功也。」
すなわち
”嘗て秦は韓を攻めて邢丘を包囲し、上党を苦しめましたが、上党の民は皆秦に帰属せずに、かえって趙に帰属しました。天下の人々が秦の民になるのを悦ばない年月は、すでに久しいものがあります。いま、趙を亡ぼせば、その北方の地は燕に帰し、東方の地は斉に帰し、南方の地は韓・趙に帰し、あなたが獲得なさる民はいくばくもないでしょう。ですから、今回の戦勝を利用して、韓・趙に地を割譲させて講和を結び、武安君の功績にさせない方がよろしいでしょう。”
と説きます。趙をまるごと滅ぼした場合、本当にみんなが秦を嫌がって、その地を隣接国に献じて抵抗するのでしょうか?あるいはみんなは隣国へ逃げてしまうのでしょうか?
そんなことは不明で、むしろはっきりしているのは白起の攻撃で、趙が滅んだら白起の大手柄になることです。だからこの説得の力点は秦の侵攻を止めて、これ以上白起に大手柄に立てさせない、というところにあります。
動機不純な理屈ですが、応侯はその講和話に乗ります。そして秦王に、秦軍は疲労しているし、韓・趙が領地を割譲して和を乞うているので、聞き入れて、士卒を休息させましょう、と提案して許可を得ます。その結果秦は韓の垣雍(エンヨウ)、趙の六城市を割譲させて軍を引き上げます。
当然武安君は不平です。そして応侯と仲違いします。これが白起が身を滅ぼす始まりとなります。
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