その後も史記には呂后は呂氏の便宜を図るような人事をいろいろやります。大臣が進言したとかいう登用もある訳ですが、所詮は呂后の意を察して出した呂后の望む案で、大臣のゴマすりであり保身であります。
しかし人はいずれ寿命が来ます。呂后の病が篤くなったころ、趙王呂禄(呂后の弟だと思うのですが)が上将軍として北軍を統べさせ、呂王呂産(呂后の兄の呂周の孫)に南軍を統べさせていました。呂后が彼らにいうには
「高帝已定天下,與大臣約,曰『非劉氏王者,天下共擊之』。今呂氏王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐為變。必據兵衛宮,慎毋送喪,毋為人所制。」
です。野口さんの訳によれば、
“高帝がさきに天下を平定されたとき、大臣たちと「劉氏以外のものが王となったら天下は協力してこれを撃て」と盟約なさいました。いま呂氏が王となっていますが、大臣たちは心中平らかではありません。わたしがもし死んだら、帝は年少のことですし、大臣たちはおそらく変乱を起こすでしょう。そなたらは、必ず軍隊を掌握して宮廷を衛り、わたしの喪送にかまけて人に制せられることのないように慎みなさい。”
ということです。
現実を直視した卓見の様にも見えます。前回に書いた劉澤も諸般の事情によりまだ片づけられなかった一人で、そのほかにもまだまだ潜在的敵が残っていますから。
しかしこの時の呂后の立場や考え方からすれば;
呂氏を劉氏を凌いで繫栄させたい。→劉氏の天下を奪う必要がある→これには呂氏以外は敵に回るだろう→だから呂氏以外は全部片づけたかった→しかし寿命の関係で間に合わなかった→あとは呂禄、呂産がしっかりしろ
ということになります。共存、即ち名門臣下としての繫栄、という選択肢がない方向で進んでしまいました。大臣たちはみんな敵と見做さないといけないのです。
ところで中国の王朝で盛んになった外戚がみんなこんな抜き差しならない状況になるとは限りません。“自分の親族以外はみんな敵”という路線にはまり込んでいったのは呂氏自身の責任であるということです。
あとはその路線を支えるだけの度胸と能力がある跡継ぎが出るかです。だめなら一族滅亡となります。だから危機感をもって呂禄、呂産に遺言した訳でしょう。
では呂后は真の意味の卓見をもっていたのでしょうか。そうではなくて単に了見の狭い残酷な性格な人が、大きな権力を握ってすきなようにやって最終的に呂禄、呂産への遺言のような見解にいたっただけで、偉くもなんともないのではないかと思います。
司馬遷は恵帝、呂后の時代は君臣は無為の治世で休息したいと望んだ。それにあわせて天下は安泰であった。と好意的な言い方をしています。
天下は安泰であったとしてもそれは呂后の手柄ではありません。高祖劉邦とあとを継いだ大臣たちのお蔭だったのではないでしょうか。
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