禰衡はばかげた死に方をしましたが、彼は彼を推薦した孔融の処断の口実にもなりました。孔融はつまらない男に関わって禍を招いたのです。
孔融を弾劾したのは路粋というものです。彼は当時文名がありました。
「典略」によれば
「及孔融有過、太祖使粹爲奏、承指數致融罪、」
とあります。今鷹真さんの訳によれば
“孔融に過失があったときに、太祖は路粋に上奏文を作らせた。[路粋は]太祖の意向を受けて孔融を責め、罪に陥れた。”
ということです。太祖は孔融を殺そうと思ったから、文章力のある路粋に弾劾文を作らせたのです。曹操は昔の同輩として不遜な振る舞いの多かった孔融が気に入らなかったので、おそらくは理由はなんでもよかったのです。
路粋の上奏文の中には
「又與白衣禰衡言論放蕩、衡與融更相贊揚。衡謂融曰『仲尼不死也。』融答曰『顏淵復生。』」
という文言があります。
今鷹さんの訳によれば
“白衣(平民)の禰衡と思いのままふるまいしゃべり、禰衡と孔融は互いに賛美称揚しあっておりました。禰衡は孔融に向かって「仲尼は死んでいない。」というと、孔融は「顔淵が生き返った」と答えました。”
ここで禰衡が出てきます。しかし、お互い勝手に褒めあっているだけで、これでは殺す理由にはならないだろうと思いますが、孔融が死んだあとの布告があり、もう少し踏み込んだことがかかれています。布告は孔融が名声があったので、刑死を不憫に思う人が多かったから出されたとのことです。
「魏氏春秋」によれば布告文には
「……此州人說平原禰衡受傳融論、以爲父母與人無親、譬若缻器、寄盛其中、又言若遭饑饉、而父不肖、寧贍活餘人。融違天反道、敗倫亂理、雖肆市朝、猶恨其晚。…」
という内容があるようです。今鷹さんの訳によれば
“…彼と同じ州の者が述べていることだが、平原の禰衡は孔融の論説を伝授しているという。彼は父母が子と関係ないのは、たとえてみれば[水と]水がめのようなもので、[子は産まれる前]かりにその中に入っているのだと主張し、またもし飢饉にあった時、父親がくだらない人間ならば、むしろ他の人間を助けて活かせと申している。孔融は天に逆らい道に背き、人倫をそこない道理を乱した。市場に屍をさらしたものの、なおその遅すぎたことを残念に思っている。…”
ということです。
孔融は禰衡と仲良くなって、くだらない議論で時間を費やし、殺される口実の一つにされてしまったのです。
こんな議論が史書に残るのですから、禰衡もそれなりに才人と目されていたのでしょうか。この男についてもっとわかりやすい議論が葛洪の抱朴子にあります。
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