正史では劉表へ降伏勧告の使いの人選で禰衡が挙がって来た、などという話はありません。
魏書 荀彧荀攸賈詡伝 第十の荀彧伝の註の中に引用されている禰衡は「平原禰衡伝」なる伝を引用して語られます。
孔融(2)のところでも書きましたが
「衡字正平、建安初、自荊州北游許都、恃才傲逸、臧否過差、見不如己者不與語、人皆以是憎之。」
という有様です。井波さんと今鷹さんの訳によれば
“禰衡は字を正平という。建安の初年、荊州から北方許都に出向いたが、才能を鼻にかけて傲慢、他人への批判は度をこし、自分に及ばないものとは口をきかなかった。このため人々はみな彼に憎しみを持った。”
というのです。これではこの男の将来は前途多難です。
そしてこれに続く文は、
「唯少府孔融高貴其才、上書薦之曰……」
です。
“ただ少府の孔融だけは、彼の才能を高く買い、上書して彼を推薦し…”
ということです。これが禰衡(1)、あるいは孔融(1)でも触れた「禰衡を薦(すすむ)る表」で歴史に残る名文な訳です。孔融は歴史に残る名文を書いて禰衡を推薦したわけです。
禰衡が認めているのが孔融と楊修だけで、その他をみんな馬鹿呼ばわりして威張っているのですから人からよく思われる訳はありません。
「平原禰衡伝」によれば、禰衡自身がみんなから憎まれていることを知り、自ら荊州へ行こうとするのですが、これには不思議な話がくっついています。
人々は送別会を開いてやったが、みんなは先に席につき、禰衡が日頃無礼をはたらいていたので、彼が遅れてきたときに席を立たないようにしようと決め、彼が来ても立たなかったのです。
これに対して禰衡は泣き叫びます。理由を聞かれると
「行屍柩之間、能不悲乎?」
すなわち
“屍体と棺桶の間を通るのだから、悲しまずにいられようか。”
と言ったそうです。
しかしそんな気に入らない男のために金と時間をかけて送別会を開いて、お互い不愉快でまずい酒を飲むなんて馬鹿げていますね。
さりながら送別会をやるというからには、やはりそれなりの文名があったのでしょうか?今に伝わっている私の知る禰衡の文は
「鸚鵡賦」だけです。
正史の裴松之註では張衡の「文士伝」も引用され、禰衡が劉表の所へ行くに至った別の話がかかれています。
この中では曹操はまず禰衡を侮辱しようとして、鼓を打つ小役人に任命したことになっています。
そのあとの話は三国志演義とほぼ同じです。大変に上手に太鼓を撃ったことと、曹操の前で裸になって着替えたことがかかれています。
この後、孔融は禰衡を責めなじって、なんとまた曹操と会見させようとします。そして禰衡はまた曹操のところに行くことにします。一方孔融の方は予め曹操に面会し、禰衡がお目にかかりたいと申しております、と伝えます。
ここのあたりの孔融の感覚は理解しがたいものです。これ以上禰衡を曹操と会わせてもよいことはないと判断し、禰衡とは縁切り、というのが普通の人の対応でしょう。どうみても関わりあいになってよいことはなさそうです。
曹操の所へ出掛けた禰衡は馬鹿なことに曹操の営門の外に座り込んで、杖で地面を叩きながら曹操を罵倒したということです。これで禰衡のどこが偉いのかわかりません。どうみても心の病におかされた人です。
この騒ぎで曹操が怒って兵をつけて劉表のところへ連れて行かせたというのがその別の説明です。
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