2016年2月1日月曜日

史記 呂后本紀 第九(11)

斉王は諸王侯に呂氏討伐の檄を飛ばします。その中に次の言葉があります。ちょっと気になります。
高后用事,春秋高,聽諸呂
即ち、
“高后が政治にあたったが、高齢であり、呂氏の人達のいうことを聴いた。”
というのです。その結果つぎつぎと趙王を三人殺し、梁、趙、燕を滅ぼして呂氏一族が王となったと非難しています。呂后が率先して呂氏の為に力を奮ったのではなく、呂氏一族が呂后にそうするように仕向けたというのです。そして諌めるものがあっても
「上惑亂弗聽
即ち
“呂后は惑乱して聞き入れなかった”(だから呂氏の横暴は収まらなかった?)
とあります。
斉王の檄文は、悪いのは呂氏一族の有力者であって、老齢の呂后ではないようなスタンスです。しかし呂后本紀の他の部分の記述からすれば、漢を呂氏のものにしようとした施策は呂后が主導したことです。
呂后の死は御飾りの老婆が死んだのではなく、呂氏のリーダーがいなくなったということです。だから忽ち乱がおきたのです。

相国の呂産はこれに対して灌嬰を派遣して鎮圧させようとします。しかし灌嬰は滎陽まで来てから斉王に、共に呂氏を滅ぼそうと提案します。具体的には呂氏が乱を起こすからそれを待って誅滅しようというのです。

結局どうなっていたかと言えば
「呂祿、呂欲發亂關中,憚絳侯、朱虛等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之,欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未
となります。即ち野口さんの訳によれば
“呂禄と呂産は関中で変乱を起こそうとしたが、内は絳侯・朱虚侯らをはばかり、外は斉、楚の兵を恐れ、また灌嬰がそむくのではないかと恐れて、灌嬰の兵が(背かずに)斉と合戦するのを待ってことをあげようとし、狐疑してまだ決定しなかった。”
ということです。呂氏の周囲はこの時点で敵か、あるいは信用できない人ばかりです。灌嬰とても信用できないのに兵を与えて反乱征伐に行かせたのです。

情勢がこの有様では灌嬰があっさり寝返るのももっともです。この時点で客観的には勝負がついているようなものです。

本来こうなる前に手を打つべきなのですが、七月に呂后が死んで八月には騒動になっていますから、手を打つべきだったのは呂后その人です。呂后は権力を振り回して周囲に発生している危険を本当には理解していなかったようです。





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