2016年2月8日月曜日

史記 呂后本紀 第九(13)

さて、灌嬰が寝返って斉、楚と連合して呂氏討伐をすることになったから速やかに自衛するように呂産に連絡がはいります。反呂氏の挙兵は呂産もすでに知っていることです。ここでの報告の中心は灌嬰の寝返りでしょう。
その時そばにいた平陽侯が丞相陳平と大尉周勃に連絡します。しかし大尉は兵権を一手に握る立場なのに北軍をどうにもできません。そこですでに北軍の軍権を譲る気だった呂禄に、酈寄と劉掲に説かして将軍の印綬を返還させます。

そして周勃は北軍の兵権を握って、兵士に有名な命令をだします。
「為呂氏右袒,為劉氏左袒。」
すなわち
“呂氏に着くなら右袒、劉氏に着くなら左袒せよ”
です。左袒の語源になっています。今更こんな要求は兵にとっては改めて誓わされた意味しかありません。ここで右袒した日にはすぐ殺されてしまいます。

しかしまだ南軍は呂産が抑えています。まだ周勃は呂氏に勝てないのを心配して、あからさまに呂産を誅滅せよと言いかねて、朱虚侯劉章を派遣します。周勃という男は案外意気地がないです。朱虚侯は未央宮に入って呂産を殺します。あとは時の勢いで、呂氏の老若男女皆殺しになります。呂禄も呂も結局殺されます。

呂氏が滅亡したところで新体制の相談になります。まず現皇帝の弘(もとの常山王義)は恵帝の本当の子供ではない、梁王、淮陽王、常山王も恵帝の種ではない、ということで除かれる(=この世から除かれる)ことになります。

では誰を皇帝に立てるかです。そこで(10)で書いたようにうまく斉王に騙されて兵を奪われた瑯邪王が口をだします。“斉王の母の実家の駟鈞は悪逆暴戻な男だ、(外戚の)呂氏が暴虐で天下を乱そうとしたのに、また斉王を立てたら呂氏の二の舞になる、それにひきかえ代王の母の実家の薄氏は君子であり仁徳者である。また代王はまさしく高祖の子供で存命、最年長である。”と巧妙に斉王が皇帝になる芽を潰し、代王を擁立させます。これが文帝です。

かくて折角の呂后の努力もむなしく呂氏は根絶やしにされます。

私には、呂后の時代というのは、呂后という我の強いサイコパス女性が思い切り権力を振り回しただけの時代に見えます。それでも呂后の視野に対応して、ひどい目にあったのは宮廷人だけです。呂后の専横から最後の呂氏一族の滅亡まで一般人には関わりのない話です。呂后の時代、天下は太平だったといいますが、それは高祖により兵乱が収まって落ち着いたからです。それが証拠に呂后がいなくなってから混乱が起こったり、一般人が暮らしにくくなったりはしていません。文帝の時代もよい時代だったのです。





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