2016年2月8日月曜日

史記 呂后本紀 第九(12)

すでに書きましたように趙王の呂禄、梁王の呂産がおのおの北軍と南軍の兵権をにぎっていました。国家の軍を統べる立場である大尉の周勃でも都の兵を掌握できなかったのです。呂氏を倒すには呂禄、呂産は甚だ邪魔な存在で、クーデタを起こそうとする方としてはなんとか除きたい存在でした。

一方曲周侯である酈商(レキショウ)の子供の寄が呂禄と仲がよかったそうです。そこで大尉の周勃と丞相の陳平が相談し、寄に呂禄に兵権を手放すように説得させます。
「令其子寄往紿呂祿曰」
とあります。野口さんの訳では
“その子の寄に、呂禄のもとに出向いて、あざむいて次のように説かせた。”
となってました。でも、もとの文では寄に説かせただけに見えます。欺いた主体は周勃と陳平にあって、寄は真面目に信じて呂禄の為に説いたのではないでしょうか。

しかし、その説得の内容は大して説得力がないです。
“劉氏の王が九、呂氏の王が三ですが、これは大臣、諸侯がよしと認めたものです。(呂氏の既得権は認められているのです。)あなた(呂禄)は趙王でありながら領国に赴任せずに兵権をもって都にとどまっておられる。だから大臣諸侯が不安になります。兵権を大尉に渡して領国に赴任すればみんなは安心し、斉の国の乱は収まるでしょう、”というのです。
斉王の挙兵は呂氏討伐を旗印にしたものです。これの鎮圧のために呂産、呂禄は灌嬰の軍を派遣したのです。ここは一族の浮沈を賭けて頑張るべきところだったのです。ここで自分が兵権を手放しては、安全になるどころか自分も自分の一族も大変に危険なことになるのはそんなに先見の明がなくても分かりそうなものです。

呂禄は現に反乱が起こっているし、周囲の雰囲気からの危険は感じていたでしょうが、とにかく怖いだけで、その重圧に耐えられる人間ではなかったのではないでしょうか。だから、“安心して暮らせるようになります、”という根拠のはっきりしない酈寄の甘言になびいてしまったのではないでしょうか。


呂禄は兵権を手放す気になり呂産、およびその他の呂氏一族の長老に知らせます。
ここで呂氏一族にとって運が悪かったのは呂産がこれに反対し、直ちに行動を起こさなかったことです。
唯一人兵権放棄の結果を予知して“呂氏はいまにいるところもなくなってしまうだろう”と怒ったのは呂(呂后の妹)だけでした。彼女は自分達の拠って立つ基盤が何であるかを良く理解していたのです。呂氏にとっては呂が一族を仕切っていた方が良かったでしょうね。





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