2016年3月13日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(1)

久々に三国志の人物を扱います。袁紹です。董二袁劉の合伝に記録されています。
最初に列伝の名に董二とありますが、この二の意味はなんだか、分かりません。世間では周知のことかも知れませんが私は浅学にして分かっていません。

袁紹はこの合伝に出てくる劉表となんとなく似たところがあります。袁紹は
「紹有姿貌威容、能折節下士、士多附之。」
とあり、今鷹さん井波さんの訳によれば
“袁紹は堂々として威厳のある風貌をしていたが、身分にこだわらずよく士人に対して下手に出たため、大勢の人が彼のもとに身をよせた。”
とのことです。一方荊州にいた劉表は
「少知名、號八俊。長八尺餘、姿貌甚偉。」
とあります。同じく訳によれば
若いころから有名で八俊と呼ばれた。身長は八尺以上もあり、容姿はたいへんりっぱであった。“
ということですから、劉表は若いころから学問や品行にすぐれ、当時の八人の名士の一人に数えられ、見た目もよかったわけです。なお身長の尺は昔の中国では23 cm位とのことですから184 cmくらいでしょうか。
しかし両人ともその評判となっている美点を生かし損ねたようです。それでも劉表は戦乱の世で行動を勧められることがありながら、むなしく荊州に朽ちたのに対し、袁紹は曹操と天下を争う乾坤一擲の勝負をしています。まだしも興味ある人間と言えましょう。

袁紹は名門の出です。高祖(祖父の祖父)の袁安は司徒であり、袁安以下四代にわたり三公の職についています。
名門で評判も良かった所為か、時の大将軍の何進の命に応じて侍御史(監察とか弾劾にあたる職)となり、その後、司隷校尉(帝都周辺の守備、行政担当)に登ります。

まもなく霊帝が崩御しますが、ここで袁紹が歴史に残る事件で重要な役割を果たします。大将軍の何進は宮中に上がって子((ベン))を産んだ何太后の兄です。何進は袁紹と諮って、当時人事に容喙し、金儲けをはかり、専横を極めた宦官誅殺を考えていました。何進はこの計画を妹の何太后に反対され、董卓を召し寄せて圧力をかけようとします。

この何進の振る舞いは不思議です。なぜ何太后に知らせたりするのでしょう。宮中で身分が高ければたった一人でいることも少なく、漏れる可能性があります。漏れたら非常に危険になることは火を見るより明らかです。また外部の軍閥を呼び込んで何のよいことがありましょう。いずれ面倒な対立相手ができるだけです。

袁紹は何進にの持っている兵権だけで十分にできることだし、ぐずぐずしていると変事が起こるのでさっさとやっておしまいになりなさいと強く迫ります。袁紹の判断は理にかなっています。しかし何進は決断を引き延ばしてけりをつけません。彼は宦官誅殺の相談をしている以上、いずれ我が身に危険が迫るという危機意識に欠けていたようです。
結局何進は宦官たちにあっけなくだまし討ちにされてしまいます。これで宮中は大混乱に陥ります。

ここで袁紹は兵を率いて宮中に押し込んで宦官を皆殺しにします。死者二千人あまりという大虐殺です。思い切りよくやった訳です。何進は死んだけれど当初の目的は達成です。



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