2016年3月7日月曜日

史記 老子韓非列伝 第三 老子(3)

老子が孔子に説いたこととして、引き続き
「且君子得其時則駕,不得其時則蓬累而行。」
なる文言があります。この部分は野口さんの訳でも貝塚さんの訳でも似たようなものです。因みに野口さんの訳では
“且つまた、君子などというものは時勢にのれば馬車を乗り回すほどの身分になれようが、時勢にあわなければ蓬(ヨモギ)の種が風に吹き飛ばされるようにあちこち転々とするだけだ。”
となります。
立身出世は時の運。その結果得られた身分も、一つ間違えれば風に飛ばされる植物の種なみになる儚いものだ、ということです。

そして老子は言います。
吾聞之,良賈深藏若虛,君子盛德容貌若愚。去子之驕氣與多欲,態色與淫志,是皆無益於子之身。吾所以告子,若是而已。」
即ち野口さんの訳によれば
“わしは「よい商人は品物を奥深くしまいこんで店は空のようにしてあり、本当に立派な人は正徳を身につけているが、その容貌は馬鹿者のようだ」とも聞いている。そなたの驕気と多欲、もったいぶった様子とかたよった志向を取り去りなさい。それはあなたの身になんの益もない。わたしがそなたに告げたいのは、そんなことだけだ”
ということで忠告が終わっています。

立身出世も運次第の儚いものなのだから、ということに続く話なら、出世を目指さず徳や学問のあることを秘すべし、だけで済みですが、なぜか(商人の)商品も、あっても隠すのがよし、という話もくっついています。でも商人の例は、君子の例とは違うような気がします。よい商品を隠し持っている商人はいずれそれを良い客に売りさばいて現世の利益を得ることでしょう。

老子の考えは君子人のあり方として、自分のうちもっているものを隠して名声を挙げないことを旨とする訳です。名声を挙げないだけのことなら私でもすでに到達した境地です。何か自分の内に中味を持っていなければならないのです。

しかしその隠した徳をもった君子はどうなるのでしょう。彼の徳は傍からは見えず、君子は埋もれたままではないでしょうか。
しかしそれを面白からず思うのも、われわれの如く世俗に染まった人の考えで、内なる徳と学殖を自らの心の楽しみと誇りにして、世俗の雑事、争いごとから超然としていられることこそ真の君子人であるという考え方もできない訳ではありません。

とはいうものの「老子」(「道徳経」とも言います)に入り込んでその思想を理解共鳴するのも容易ではありません。

その冒頭からして
「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母」
という有様です。小川環樹さんによればこれは
“道の道()う可()きは、常の道に非ず。名の名づく可きは常の名に非ず。名無きは、天地の始めにして、名あるは万物の母なり”
と読んで、その意味は
“「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであればそれは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名」(名づけえないもの)からであった。「有名」(名づけうるもの)は万物の(それぞれを育てる)母に過ぎない。”
です。しかし、この訳文とても、なお解説がないと意味がわかりません。

夏目漱石の「吾輩は猫である」のなかで
「だから主人が此文章を尊敬する唯一の理由は、道家で道徳経を尊敬し、儒家で易経を尊敬し、禅家で臨済録を尊敬するのと一般で全く分からんからである。」
と猫に言わせていたのを思い出します。大教養人たる漱石とてもやっぱり分からなかったのかもしれませんね。





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