2016年3月20日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(2)

前回に述べた宦官一掃の件は、彼の判断は適切で、行動は果断であったと言えます。髭がないので宦官と間違われて殺されたとか、品行方正であった宦官も一緒に殺されてしまったとかいう気の毒な例もあったようですが

さて騒動が起こり、袁術(袁紹の従弟)が嘉徳殿と青瑣門に火を放ったとき、宦官の段珪(ダンケイ)等は帝(少帝と呼ばれる)と、帝の弟の陳留王をむりやり連れ出して小平津(ショウヘイシン)まで逃走しました。しかし袁紹等はこれを急追し、段珪等は悉く黄河に身を投げて死にます。

ここで袁紹伝では唐突に董卓が袁紹に少帝を廃して陳留王を帝に立てることを諮る話がでてきます。

董卓伝の方を読むと、皇太后が宦官征伐に反対するので、何進が愚かにも董卓を洛陽に召し寄せたのですが、董卓がまだ到着しないうちに何進は宦官に殺され、董卓は混乱から逃げて来た帝を北邙(ホクボウ)に出迎え、御所に帰還できた、とあります。彼は帝とその弟の陳留王を擁したのです。

少帝を廃して陳留王を奉じて帝にする、という董卓の案は、董卓が二人の話すことを聞いた結果、帝の方は頭脳明晰でなく、まともに経緯の説明もできないのに反し、陳留王の方は筋道の立った応答ができた、と判断したことに拠るようです。(「献帝紀」による。)

さて帝を廃する相談を受けた袁紹は表向き逆らいませんでした。しかし冀州に逃げてしまいます。逃げた以上は、帝を廃する計画には反対という意思表示を董卓に対してしたことになります。都にいて董卓に信頼されていた時の名士たちが、ここで名門出身で息のかかった役人も多い袁紹を追求すれば、却って面倒になる、と董卓を説得します。董卓はそれを聞き入れ袁紹を渤海太守とし、コウ郷侯にとりたてました。

さて董卓は少帝を廃し、弘農王とし、弟を立てます。これが後漢最後の皇帝である献帝です。一方で董卓は曹操を驍騎校尉に任ずるように奏上し、彼と今後のことを相談しようとします。

献帝の方が少帝よりしっかりしていると見抜く、曹操は有能だから相談相手にしようと考える、袁紹の扱いを忠告してくれる名士達がいる、そして名士の言を入れて袁紹に位をやって懐柔しようとする、などを見ると董卓という男は決して愚かでは人間ではないと思います。

しかし曹操の方は董卓に危うさを感じていたのか、もっと志が高かったのか、逃げてしまいます。
一方董卓は皇太后と弘農王を殺してしまいます。このあたりはこの男の冷酷さがでています。

袁紹は董卓討伐軍を起こします。諸侯同盟を主催し、幽州の牧である劉虞を皇帝に立てようとして印章を奉ります。劉虞は受け取りません。これは大いにあり得る事です。
腹に一物ある寄せ集め討伐軍が董卓に潰されたら自分はたすかりません。旨い具合に董卓が亡んでも今度は御飾りの盟主は邪魔にされ、殺される可能性があります。

袁紹も初めから自分が盟主だというと人に野心を疑われるので、断られるのを承知で劉虞を担ぐふりをしたのかも知れません。万一劉虞がこの話に乗って来たとして、これをあとから裏切っても漢朝の簒奪者だとはあまり言われないでしょう。

だとしたらそこそこ政治的常識のある群雄の一人ではないでしょうか。





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