2013年10月2日水曜日

三国志演義、三国志 蜀書 関張馬黄趙伝第六 黄忠(1)



魯迅の「風波」という短編小説に酒場の主人で、清末の混乱にすっかり世の中が嫌になった遺老的雰囲気の趙七爺(チャオチーイエ)という男が出てきます。この小説によれば、彼は金聖歎(この歎の字を魯迅は使っています。)批評本の「三国志」を読んでいて、黄忠の字が漢升であり、馬超の字が孟起であることまで知っている、と紹介されます。
してみれば黄忠や馬超の字はさほどにはポピュラーではなく、彼ら二人は関羽、張飛、趙雲に比べてマイナーな存在なのでしょうね。

因みに現在の翻訳の三国志(演義)の原本の最終形は、毛宗崗が批評を加えた毛本というものらしいですが、現在出回っているものは、これに金聖嘆(こちらの嘆が本当らしい)の序がくっついているそうです。しかしその序は本を権威づけて売るための、全くの贋作だというのが定説です。三国志演義について独立の金聖嘆批評本というのも聞きませんので、魯迅の「風波」で趙七爺が読んでいるのは、多分この金聖嘆の贋作序文つきなのでしょう。

それはとにかくとして、三国志演義では黄忠は第五十三回に初めて登場します。劉備が赤壁の戦いの収穫として荊州攻略を始めます。この時、長沙には太守の韓玄がいたのですが、長沙攻略を関羽が担当することになります。
そしてこの韓玄の部下として黄忠がいたのです。
なお、韓玄は短気でやたらと人を殺すので誰からも恨まれていたことになっています。

三国志演義では大将の強さは個人的武勇で表現されますので、関羽は黄忠と切り結ぶことになります。しかし、勝負がつきません。そこで関羽は、翌日は逃げるふりをして追いかけてくるところを後ろに払ってやろうと考えます。そして翌日逃げるのですが、振り向きざまに切ろうとしたところ、黄忠の馬が前足をつかえて、黄忠が馬から投げ出されたのでした。この時、関羽は黄忠に、ここは見逃してやる、といって斬りませんでした。見逃された黄忠は、その翌日の戦いの時には弓をつかいますが、二度空引きをし、三度目に油断していた関羽の兜の緒を射抜きます。ここで関羽は初めて、黄忠が昨日の恩義に報いてくれたと気づきます。
ところが韓玄はこれを見ていて、黄忠は裏切り者と思い込み、首を斬らせようとします。あわや処刑、というところで、韓玄のところに身を寄せていたが、韓玄に重く用いられていなかった魏延が叛乱を起こし、黄忠を助け、韓玄を斬ります。
これにより黄忠は劉表に属するようになります。

正史ではどうでしょうか。荊州の劉表は黄忠を中郎将に任じ、劉表の甥の劉磐と共に長沙の攸県を守らせます。曹操が荊州を取ると、黄忠を仮に裨将軍とし、もとの任務につけ、長沙太守韓玄の下に置きました。裨将軍は中郎将より上ですが、将軍の中で最下位のものです。劉備が荊州の南方の諸郡を平定すると黄忠は臣下の礼をとり、付き従って蜀に入国した、とあります。
黄忠は特段の抵抗をせず降参し、劉備の臣下となり、劉備の蜀攻略に従ったのです。もっともその地位からして、郡の態度についてどうこう言える立場でもなく、また郡に対してもそんな義理もなかったのでしょう。つまり黄忠はここまでは何者でもなかったに等しいのです。





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