史記にはこじれた君臣関係の結果有能な臣下が命を落とす例がいくらもあります。
そして多くの場合、その陰に嫉妬して成功者の邪魔をしようとする人、人を讒言して陥れようとする人が立ちまわっています。
白起もそうした悲劇に見舞われた例です。とは言いながら古代人だから彼自身のやったことも乱暴です。秦の昭王に登用されてまもなくの大手柄が次の通りです。
「白起為左更,攻韓、魏於伊闕,斬首二十四萬,」
野口さんの訳によれば
”白起は左更になり韓、魏を伊闕(イケツ)に攻め、首を斬ること二十四万”
だそうです。その結果
「又虜其將公孫喜,拔五城。」
”また敵将公孫喜をとりこにし、五城市を抜いた。”
ということです。そのあとの将軍としての能力は素晴らしいもので、
韓の安邑(山西省)から乾河(山西省の河ですが、今はありません。)の地をとる。
魏を攻略し六十一の城市をとる。
垣城(エンジョウ、山西省)を抜く。
趙の光狼城(山西省)を抜く。
楚の鄢、鄧(いずれも湖北省)など五城市を抜く。
楚の郢(エイ)を抜き,夷陵を焼き払い、東の方、竟陵(湖北省)までいたる。
その郢結果楚王は郢から逃げ都を陳(河南省)に移した。
秦は郢を南郡とする。
さらにすすんで楚をとり巫郡(四川省)、黔中(ケンチュウ)郡(湖南省)を平定。
魏の華陽(河南省)を抜き、三晋(韓、魏、趙)の将をとりこにし、斬首が十三万!
趙の將、賈偃(カエン)と戰い,其の士卒二万人!を黄河に沈めた。
韓の陘城(ケイジョウ)を攻めて五城市を抜き、斬首五万!
向かうところ敵なしです。軍事的才能は大したものだ、ということがわかります。ただし現代人からみれば(あるいは古代人が見ても)蛮行とも思われる殺戮を繰り返しています。
なお、古代ローマ時代の話だと軍事的知識、興味のあった歴史家の記述もありますので、基本戦略、兵の構成、採用した戦術、武具などがわかりますが、司馬遷はそうしたことに知識も興味もなかったのか、戦についての詳細はわかりません。よって白起の戦略、戦術がどう勝れていたのかはわかりません。ちょっと残念ですね。
さて、白起が韓の野王(河南省)を伐ち、野王は秦に降ります。
その結果、韓の上党と韓本体との通路が途絶えてしまいました。上党を守っている馮亭(フウテイ)は秦の侵攻を恐れ、しかも韓は守ってくれないと考えました。そこで上党を趙に献上して趙に帰属すれば、秦は趙を責めることになるだろうし、そうならば韓も趙と連合して秦と対抗できるだろうと判断しました。
馮亭の判断はちょっと不思議です。確かに秦が攻めてくるのは怖いですが、韓からみれば、韓を裏切った上党をそのまま受け入れてしまった趙とわだかまりなく連合できるのでしょうか?
一方、趙の孝成王は平陽君、平原君と相談します。平陽君は、受け入れることによる災難は得るところより大きい、と反対し、平原君がなにもしないで一郡が手に入るのだから受け入れるべき、と言います。結局受け入れることにして、馮亭を華陽君とします。
秦はまず韓を攻めます。ここからは白起でなく、まずは王齕(オウコツ)に上党を攻略させます。その結果、上党の民は趙に逃げます。そして趙は上党の民を保護すべく長平に布陣します。これにより王齕は趙を攻撃することになります。上党を受け入れることは秦との戦争を招くことになった訳です。ただし、受け入れなければ趙が平和に暮らせた、という保証もありませんが...
さてここで趙は名将廉頗(レンパ)を将軍に任じます。
廉頗は塁壁を堅固にして頑強に守ります。趙王はこの防戦一方の戦いが気に入らず廉頗を責めます。この事態を秦の宰相の応侯に付けこまれます。応侯は趙に金をばらまいて、”秦が警戒しているのは馬服君の子供の趙括が将軍になることだけだ。廉頗は与し易い。いずれ秦に降るだろう。”という噂を流します。
趙王は廉頗が戦わないことを怒っていましたので、この反間の言を聞いて廉頗に替えて趙括を将軍にします。人の能力を見る目がない結果、愚かしいことをしたのです。
これを聞いた秦は白起を上将軍とし王齕を副将とする体制にします。そして陣中に白起が赴任したことを漏らすものは斬罪にするというおふれを出します。
誰がこのおふれを出したのでしょう?応侯なのか秦の昭王なのか。
とにかく相手が警戒を強めることを心配した訳です。もしかしたら白起のこれまでの残虐行為が知れ渡っていて、名前をきいただけで趙兵が死にものぐるいの戦闘をすることになるのでしょうか。
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