次に楽毅はなかなか尤もなことを書いています。
「臣聞古之君子,交絶不出惡聲;忠臣去國,不絜其名。臣雖不佞,數奉教於君子矣。」
とあります。
貝塚さんの訳では、
”君子は絶交したあとで相手の悪口をいわぬもの、忠臣は国をさったあとで自分の宣伝はいたさぬもの、と申します。それがしふつつかながら、これをしばしば君子より教えを受けたものであります。”
です。
ここで”不潔其名”の訳、”忠臣は国をさったあとで自分の宣伝はいたさぬもの、”の意味するところがよくわかりません。
野口さんの訳では、
”わたくしは、「むかしの君子は、人との交際が絶えてもその人の悪口をいわず、忠臣は国を去っても、咎を君主に帰して、身の潔白を言い立てたりはしない」と聞いております。わたしは不才ではありますが、しばしば君子に教えを仰ぎました。”
となっています。これなら”不潔其名”の意味がよくわかります。ただし”交絶不出惡聲”のところは貝塚さんの訳の方がわかりやすいですね。
双方の訳とも、君子から教えを受けた、という表現についてとくに噛み砕いた言い回しにしていません。わざわざ誰かに教わったと書いてあるのだから、一体誰に教えを受けたのだろう、と知りたくなりますが。
楽毅が趙の軍を率いて燕に攻めこむのではないか、と恐れるなどは下衆の勘ぐりでした。一度仕えて禄を食んだ国ですので、少なくも先王には恩義があります。また燕の国の中には彼と親しかった人もいるはずで、その人たちへの信義もあります。趙の軍を率いて燕に攻め込みたくはなかったでしょう。
彼は常識人であり、恵王に対しては側近を信じられない(つまり恵王自身を信じられない)といいつつも、趙あるいはその他の国の人に向かって恵王の悪口を言い立てるなどのことはしなかったでしょう。
今の世の中だって、会社員だった男が辞めた会社の悪口を言いふらすのは器が小さく見えて見苦しい事です。
その後燕王は、楽毅の子供の楽間をかつて楽毅を封じた昌国君に封じます。そして楽毅自身も趙から燕に行き来して燕とも交わります。趙も燕も彼を客卿に任じています。
子供の楽間が燕の昌国君に封じられても、楽毅にとって人質にはならず、楽毅が客卿として燕に行っても捕らえられたりしない状況であることを楽毅は読みきっていたのでしょう。
燕にとっても趙にとっても楽毅と関わりを作っておくことが相手から攻めこまれない保険になっている状況になっていたのだと推測します。
楽毅は趙で亡くなります。
結論として楽毅は諸葛亮が目標とするだけの軍人であり、外交官であり、政治家でありました。
昭王から斉を撃てといわれて機械的に燕軍を率いて攻め込んだのではなく、政治、軍事の状況を見極め、まず周辺諸国を外交手腕によって抱き込み、それから連合軍で攻めこんで勝利しています。その後、燕の単独軍で斉の七十余城をおとします。軍事的才能は抜群であったのでしょう。しかもこの間、敵国での活動で常に補給、調達の問題があったはずです。もろもろの事に対する対応には政治的手腕もあったはずです。
また恵王の書簡に対する返書を見れば、人間として聡明で出処進退にあやまりなき人であることがわかります。
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