2015年1月2日金曜日

史記 楽毅列伝 第二十(5)


楽毅の恵王宛の書簡の本論の流れは、中国式で飾った言い方でながながと書いてありますが、論旨は明瞭です。

まず
「故察能而授官者,成功之君也;論行而結交者,立名之士也。」
ということを言います。

ここのところの貝塚さんの訳では
”人の能力を洞察して官職を授ける者は、事業をなしとげうる君主であり、人の行為を判断して価値を認めた人と交際するものは、名を立て得る人物といえるのです。”
となっています。

一方野口さんの訳では
”人の才能を察知して官職を授けるものは功を成しとげる君主であり、君主の行いを正当に論じて臣事する者は名を立てる士であります。”
となります。

前段はほぼ同じですが、後段で「論行而結交者」の扱いがすこし違います。素人判断では貝塚さんの方が直訳的で、主旨は野口さんの方が理解しやすいと感じました。


その後で、楽毅は上記の論理にしたがって、先王(昭王)は功を成し遂げる君主であり、自分はその王の志を認め臣事するに値すると思い、努力して仕え、斉を打ち破る大手柄を立て、小国の諸侯と並ぶ身分にして頂いた、という事実が書かれます。
逆にいえば、もし王様がそれに値しない人物ならば、楽毅はその価値を認めず、仕えもしなかっただろう、ということになります。

次に
「臣聞賢聖之君,功立而不廢,故著於春秋;蚤知之士,名成而不毀,故稱於後世。」
と言います。

これは、賢い君主が功績を立てればそれは廃れず史書に記録される、先見の明ある士が名をなせばそれは壊されず後世にまで讃えられる、ということです。

そのあとで、先王(昭王)は大きな功績を挙げたことを説明します。だから先王は史書に残ると言いたいのでしょう。そのあと自分のことは言っていませんが、自分は先王に従って名をあげることができた。この名は不朽だ、とも言いたかったのでしょう。(確かに不朽です。2300年もあとの私でさえその名を知っていますから。)

そして自分の態度を明らかにする説明にまず次ぎの言葉から始めます。
「善作者不必善成,善始者不必善終。」
つまり
”よく事を起こす者は必ずしもよく事を成し遂げず、始めをよくする者は必ずしも終わりをよくしない”
です。
ここで伍子胥(ゴシショ)の例がでてきます。伍子胥は呉王の闔廬(コウリョ)に献策し、闔廬は楚に攻め込めました。しかし、あとを継いだ夫差は伍子胥が気に入らず、伍子胥に自殺させ、その屍を馬の革の袋にいれて揚子江に投げ込ませました。
ここで楽毅は
「子胥不蚤見主之不同量,是以至於入江而不化」
といいます。これは恵王に対して厳しい言葉です。しかしこの部分の訳が貝塚さんと野口さんでは違います。

貝塚さんの訳では
”伍子胥は先代の王といまの王では器量がちがうことを早く見抜かなかったために、揚子江に投げ込まれ、ついに成仏できない運命に落ちてしまったのです。”
ですが、野口さんの訳では
”子胥は二人の君主の器量が同じでないことを早く察知しなかったので、揚子江に投げ入れられるようになっても、自説を改めなかったのです。”
となっていて、”不化”の部分の意味が異なってとられています。浅学ということばにさえ値しない自分にはこれはどう訳すのがよいのかわかりません。しかし、野口さんの訳では”夫差の器量が劣ることを早く理解しなかったから、”に続くことばとしては論理が繋がらないと思います。

ここで、かなりはっきりと、あなた(恵王)は父親とは器量が違います。私は伍子胥のようにあなたに仕えてみすみす命を落とすようなことはしませんと言っています。

そのあとに更に、(もしのこのこと燕の恵王のところへ行って)自分が罪過にかかり、非難を被るようなことになると、(自分を用いて大功を立てた)先王の名誉を傷付けることになる、と継ぎ足しています。

楽毅は恵王を全く信用しておりません。関わるに値しない王と判定しています。

ただし、ここまでの手紙の記述では、なぜ司馬遷が書くように”斉の蒯通(カイトウ)と主父偃(シュホエン)は楽毅の燕王(恵王)への返書を読むたびに書を閉じて泣かないことはなかった、”ということになるのか理解できません。単なる猛将ではなく、非常に明瞭に置かれた立場、相手の器量を見切ることができる頭脳明晰な人生の達人であることは理解できますが、苦しみに共感して涙するような要素はないのではないか、と思ってしまいます。

この手紙の最後の部分がこのあとに続きます。





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