2014年1月3日金曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(2)



話はそれてしまうのですが、まず初めの董承らの曹操打倒計画について簡単に触れます。魏書 武帝紀第一で
「(建安)五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。」
とあっさり片づけられています。井波律子さんの訳では
“五年(200年)春正月、董承らの計画がもれ、全員死刑に処せられた。”
です。

これだけでは何だかわかりませんが、この曹操打倒計画は蜀書にやや詳しく現れています。蜀書 先主伝第二の中に
先主未出時、獻帝舅車騎將軍董承辭、受帝衣帶中密詔、當誅曹公。先主未發。……遂與承及長水校尉种輯、將軍子蘭、王子服等、同謀。會見使、未發。事覺、承等皆伏誅。」
とあります。井波さんの訳によれば
“まだ先主が(袁術迎撃に)出発する前、献帝の舅にあたる車騎将軍董承が恩賜の御衣の帯の中に入れられた密勅曹操を誅殺すべしを受けたことを告げた。先主はまだ行動を起こさないでいた。……かくて董承や長水校尉の种輯、将軍の子蘭、王子服らと計画をねったが、ちょうど(袁術迎撃の)役をおおせつかり、行動に至らぬうちに、ことが発覚し、董承らはことごとく処刑された。
です。

劉備は密勅の件で、董承に誘われ、まだ行動を起こさないでいました。の部分には曹操と話をして曹操が劉備に天下の英雄は御身と私だけ、といわれ、手にした箸を取り落すという話がはいります。劉備は董承、种輯、子蘭らと計画を練っていたが、袁術征伐の命を受けて劉備は出陣してしまい、他の人間が捕まって殺されたことになります。
これに関連して建安二十四年に劉備を漢中王に推挙する文書を群臣が漢帝(献帝)に上書していますが、その中においても
與車騎將軍董承同謀誅操、將安國家、克寧舊都。會承機事不密、
の文言があります。
“車騎将軍董承とともに曹操を誅さんと、計画し、国家を安寧に導き、故都(洛陽)を鎮定しようとしました。たまたま承の機密が保たれず…”
ということです。
では何で発覚したのでしょう?これはよくわかりません。

ここで皇帝についていえば、後漢の献帝が英邁であったかはわからないですが、愚かな人にも見えません。この計画で、帝の意思ははっきりしており、自ら行動をとっています。臣下は努力して尽くしてあげる価値があったのではないでしょうか。その結果、かかわった臣下は酷い目にあいました。






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