2014年1月5日日曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(5)



嘉平六年二月の二月の李豊達の事件のあと、秋九月に大将軍の司馬景王(司馬師)が帝の廃位を計画し、皇太后にその旨申し上げました。皇太后はこれに逆らうことは出来ず、皇太后は甲戌の日(十九日)は以下の命令を下します。
「皇帝芳春秋已長、不親萬機、耽淫寵、沈漫女德、日延倡優、縱其醜謔。迎六宮家人留止房、毀人倫之敍、亂男女之節。恭孝日虧、悖慠滋甚、不可以承天緒、奉宗廟。…」
井波さんの訳によれば、
“皇帝芳はすでに成年に達しているのに、政治にたずさわらず、気に入りの婦人に耽溺して、女色に沈淪し、毎日毎日役者を引き入れ、醜悪な戯れをほしいままにしている。後宮の女たちの縁戚の婦人を迎えて、内殿に留め置き、人のふみ行うべき秩序をうちこわし男女の節度を乱している。孝養と恭順は日々に失われ、道理にもとる傲慢さはますますはなはだしくなってきている。これでは、天の命じたもうた大業を受け継ぎ先祖の霊廟をいただいていくことは不可能である。
という前置きのもとに、
「遣芳歸藩于齊、以避皇位。」
すなわち
“芳を斉に帰藩させて、皇位にいることをひかえさせる。”
と指示します。曹芳は皇帝を廃位され、斉の国に帰らされるわけです。

かくて曹芳は○○帝と呼ばれる事はなく、斉王と呼ばれるだけになります。
「魏書」によれば、この皇太后の命令書を受けて、今度は群臣が帝の女に関する醜行愚行を具体例をもって数え上げ、曹芳はとても皇帝としていただけないから退位させるべきです、という上奏文が出され、これが受け入れられます。曹芳は政治のことは何もせず、女と淫蕩な遊びに耽っていただけのように決めつけられて終わったわけです。情けない退位です。


裴松之が信用できないとして却下している話ですが、司馬景王(司馬師)が廃位を決意した直接原因となるエピソードが「世語」と「魏氏春秋」にあります。司馬文王(司馬昭)が姜維征伐のため、許昌から都に召還されます。この時、許允と側臣の小者たちは司馬文王(司馬昭)があいさつに来るのに事よせて、かれを殺害し、さらに兄の司馬景王(司馬師)を追放しようと企んだのです。そしてすでに詔勅を御前で書き上げておきました。司馬文王が参内して来た時、帝は丁度栗を食べていたところだったのですが、その場面は以下のように書かれています。
「優人雲午等唱曰「青頭雞、青頭雞。」青頭雞者、鴨也。帝懼不敢發。文王引兵入城、景王因是謀廢帝。」
すなわち
“役者の雲午らが、「青い頭の鶏、青い頭の鶏」と歌った。青い頭の鶏とは鴨のことである。帝はおじけづき。思い切って事をおこそうとはしなかった。司馬文王は兵をひきいて入城した。司馬景王はこれが原因で、帝の廃位を計ったのである。”
となっています。ここで鴨の音が押に通じていて、それは司馬文王を殺害する詔勅に玉璽を押すことを要請していた、とのことでした。そして曹芳は最後には怖がって何もしなかったのです。

かりにこのエピソードが本当だったとしても皇帝は意気地がなくて、司馬氏と戦おうなどという気概はありません。

曹氏をないがしろにする司馬氏をうらんで、これを滅ぼそうとして、忠臣に詔勅をだし、却って忠臣が難にあう、という因果応報の形にはどうしてもなりません。
 





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