曹芳の話を書いたついでに次に皇帝に据えられた高貴郷公(曹髦)について見てみます。彼は文帝(曹丕)の孫です。
正史の記録では曹髦は正始五年(244年)に高貴郷公に封ぜられ、嘉平六年(254年)十月に呼び出されて廃帝(曹芳)に代わって新皇帝として即位します。そして改元して正元元年とします。
しかし、もはや前皇帝曹芳(皇帝の称号はない)が廃されたところで、曹家は倒れ掛かっていました。潰れかけた会社を引き継いだようなものです。
「癸巳假大將軍司馬景王、黃鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。」
とあります。井波さんの訳によれば
“癸巳の日(10月8日)、大将軍司馬景王(司馬師)に黄金の鉞(まさかり)を貸し与え、参内のさいには小走りに走らず、上奏するさいは名前を称さず、剣をたばさんだまま上殿してよい、とした。”
です。すでに司馬師が圧倒的な力を持っていました。司馬師は正元二年二月に亡くなりますが、あとを継いだ司馬文王(司馬昭)もなかなかのやり手です。
甘露元年(256年)に次の記事があります。
「夏四月庚戌、賜大將軍司馬文王兗冕之服、赤舄副焉」
“大将軍の司馬文王に兗冕の服(天子が着用するきもの)を賜り、赤い靴をこれに添えた。”
ということです。とうとう着るものまで天子なみになって来たのです。
そして正元五年(260年)には次の記述があります。
「五年春正月朔、日有蝕之。夏四月詔有司、率遵前命、復進大將軍司馬文王位爲相國封晉公加九錫。」
“正元五年春正月朔日、日食がおこった。夏四月、当該官庁に詔勅を下して先に出した命令を実施させ、ふたたび大将軍司馬文王の位を引きあげて相国とし、晋公に封じて、九錫の礼を加えた。”
ということですから、司馬昭はこのころもう天子と肩を並べるくらい偉くなっている訳です。
そのあと唐突に以下の記述があります。
「五月己丑、高貴鄉公卒、年二十。」
即ち
“五月の己丑の日(7日)高貴郷公が亡くなった。享年二十。”
正史ではその後には‘皇太后令曰’とあって、皇太后が、高貴郷公は親に逆らい、殺そうとし、大将軍(司馬昭)を殺そうと兵を起こしころされた。平民の礼式埋葬するのが妥当だ、と宣言しています。
高貴郷公は助ける者もないまま一人で怒りにまかせ、少人数で司馬昭誅殺の兵を起こし、失敗して殺されたのです。
無為無策で流れに任せてだらしなく退位させられた曹芳とは異なり、高貴郷公は自分の意思で曹家の挽回を試みた訳です。
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