さて今度は曹芳の時の話になります。
曹芳は景初三年(239年)正月に明帝が重体となり、斉王の曹芳が皇太子になりすぐに帝位に就きました。曹爽と司馬懿が政治を輔佐することになります。しかし曹爽は司馬懿を太傅に祭り上げてその実権を奪い、事実上曹爽とその取り巻きの独裁政治にします。
ところが嘉平元年(249年)帝と曹爽一派が城から出て高平陵にお参りした時に司馬懿が蹶起します。この司馬懿の蹶起の成功が最終的には曹芳の没落に繋がります。三少帝紀第四の斉王紀では以下の通りです。
「嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵。太傅司馬宣王、奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官。以侯就第。戊戌、有司奏、收黃門張當付廷尉。考實其辭、爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範、皆與爽通姦謀。夷三族。」
井波律子さんの訳によれば
“嘉平元年(249年)春正月甲午の日(六日)天子のみくるまが高平陵(明帝の御陵)に参詣した。(日本語にしてしまうとちょっと変ですね。)太傅の司馬懿宣王の上奏により、大将軍の曹爽、曹爽の弟の中領軍の曹羲、武衛将軍の曹訓、散騎常侍の曹彦を罷免し、諸侯の爵位のまま私邸に帰らせた。戊戌の日(十日)担当官吏の上奏により黄門の張当を逮捕し、廷尉にひきわたし、彼の陳述について調べただしたところ、曹爽と一緒になって叛乱を計画していた。また尚書の丁謐、鄧颺、何晏、司隷校尉の畢軌、荊州刺史の李勝、大司農の桓範らもみな曹爽の陰謀に加担していたため、三族(父母、妻子、兄弟姉妹)を誅滅した。”
となります。
ここでの年号の書き方は不備です。同じ魏書でも諸夏侯曹伝 第九の曹真伝に付属している曹爽伝では、司馬懿のグループの蹶起の始まりは
「十年正月車駕朝高平陵、爽兄弟皆從。」
となっています。十年とは正始十年です。正始十年と嘉平元年は同じ年です。斉王紀では嘉平元年春正月と言いながら、その少し後の方で夏四月乙丑の日(八日)年号を改定したとありますから、天子が高平陵へ出られたときはまだ正始十年だったはずです。諸夏侯曹伝
第九の方の記述が正しいと思われます。
城内(洛陽)を司馬懿一派に抑えられてしまい、曹爽の非をあげつらう司馬懿の上奏文がきたときに、曹爽の周囲には天子を擁して許昌に行って兵と武器、食糧を調達し、司馬氏と戦え、と進言するものもいました。しかるに曹爽は家族は城内に残っているし、戦って必ず勝てるとは限らないしで、意気地なくも目先の安寧を当てに地位を放棄してしまったのです。その結果諸侯の資格で私邸にもどされました。六日がその事件の起きた日でした。そして十日には張当という宦官が逮捕され、叛乱計画があったと白状させられます。それからたちまち曹爽一派の人間は捕まって三族まとめて殺されました。
この斉王紀の「・・・夷三族。」の文章のあとすぐに
「…丙午大赦。丁未、以太傅司馬宣王爲丞相、固讓乃止。」
すなわち、
“・・・丙午の日(十八日)大赦を行った。丁未の日(十九日)太傅の司馬宣王(司馬懿)を丞相に任じようとしたが、固辞したため沙汰やみとなった。”
とあるので、大赦(十八日)の前にはみんな処刑されてしまったのではないでしょうか。
ここで殺されたのは曹爽一派です。皇帝たる曹芳は何をしていたのでしょう。かれは司馬懿の上奏文に従って曹爽を罷免しただけです。ここで司馬懿は実質クーデターで曹爽グループを全滅させるつもりだったのです。しかしこういうやり方で政敵を陥れる忠臣なんてあるでしょうか。その矛先はいずれ皇帝に向かいます。司馬懿のクーデターに対する対処は単に曹爽の問題ではなく、皇帝の問題でもあった筈です。
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