2014年1月4日土曜日

三国志演義、三国志 三少帝紀第四(4)



曹爽と司馬懿が対立し、曹爽グループが司馬懿が政治に口を出せないように太傅に祭り上げた時にこの皇帝(曹芳)はなすがままでした。ならば曹芳を支持したか、といえばそうでもなく、司馬懿一派の蹶起のとき、曹爽が折れたらそのまま曹芳は曹爽を罷免しました。彼も曹爽と同じで、目先の平和と安穏だけを考え大局は見ませんでした。
みずから兵を率いてクーデターを起こした司馬懿と戦おう、などということは全然考えなかったようです。すべて成り行きまかせです。

そして嘉平六年(254年)春二月庚戌の日(二十二日)李豊達の事件が起きます。正史の三少帝紀 第四では、前に書いた三国志演義の記述とはちょっと雰囲気が違います。
「庚戌、中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等、謀廢易大臣、以太常夏侯玄爲大將軍。事覺、諸所連及者皆伏誅。」
すなわち、
“庚戌の日(二十二日)中書令の李豊は、皇后の父光禄太夫の張緝らと結託して、大臣を更迭し、太常の夏侯玄を大将軍にしようと計画した。事件は発覚し、関係者一同はことごとく誅殺された。”
というだけです。しかしこの件については魏書 諸夏侯曹伝 第九の夏侯尚伝についている夏侯玄伝の中にもっと詳しい記述があります。

その夏侯玄伝の中の記述を簡単にまとめると次の通りです。
夏侯玄は明帝(曹芳の先代の皇帝)に嫌われ左遷されていましたが、曹芳の代になって曹爽が勢力を伸ばしたとき、曹爽の父方の叔母の子であったため、昇進して散騎常侍、中護軍になります。
曹爽が失脚処刑後は、大鴻臚となりさらに太常になります。しかし、曹爽との関係から抑圧され夏侯玄は不満だったようです。この夏侯玄に密かに心をよせる中書令の李豊(息子の李韜は明帝の娘を娶っている。)は、皇后の父親である高碌太夫の張緝と結託し、夏侯玄に政治を摂らせようともくろみます。具体的には貴人(女官)任命の際の機会をとらえ、大将軍である司馬景王(司馬師)を誅殺し、夏侯玄を大将軍とし、張緝を驃騎将軍にしようというのです。
李豊は息子の李韜に計画を打ち明けています。そこまではよいですが、宦官三人にも打ち明けています。彼らもそろって命令に従うことを承諾していますが、こういうことをすると危なくなります。誰が喋ったのかわかりませんが、まもなく陰謀は司馬師の耳に入り、関係者は一網打尽となり処刑されてしまいます。
 張緝の娘である皇后については翌月の三月に(皇后を)廃された、という記述があります。
三国志演義のいうように引きずり出されて縊り殺された訳ではないのです。

ここで李豊も張緝も実はそれぞれ不満を持っていたようです。そして、皇帝の曹芳は何の役割も果たしていないことです。李豊達は皇帝に頼まれてやった訳ではないのです。逆に無視されているというところに曹芳の資質能力の評価が見られると思います。
 
このような事情で、曹芳の時の李豊達の計画の顛末は、三国志演義のいうような類似の事件が時期を隔て、立場を替えておこった因果応報事例にはなっていないのです。





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