2013年11月3日日曜日

三国志演義、三国志 蜀書 劉彭廖李劉魏楊伝第十 魏延(2)

魏延は勇将であり構想力もありましたが、傲慢なところもありました。

延、每隨亮出、輒欲請兵萬人、與亮異道會于潼關、如韓信故事。亮、制而不許。延、常謂亮爲怯、歎恨己才用之不盡。」
とあります。井波さんの訳によれば
“魏延は諸葛亮に従って出陣するたびに、いつも一万の兵を要請して、諸葛亮とちがう道をとり潼關(トウカン)で落ち合って、韓信の故事にならいたいと願ったが、諸葛亮は制止して許さなかった。魏延は常に諸葛亮を臆病だと思い、自分の才能が十分に発揮できないのを歎きかつ恨みに思っていた。”
となります。
魏延は自分が一万(五千という話もあり)子午谷から長安を急襲することを諸葛亮に提案していたのです。“常に諸葛亮を臆病だと思い、”とありますが、「常謂亮爲怯」だとそのように人に言っていたようにとれるのですが...

この魏延の構想について、古来、彼の構想がよかったか悪かったかの議論があるようです。今でも議論されているのですが、あいにく中国語ができないのでその議論のサイトの内容がわからないのです。
私自身は古代の地理も古代の軍事にも理解がないので、魏延の構想の当否を論ずることは出来ません。ただ言えることは、議論が分かれるものの、魏延の構想は論ずるに値するものである様です。

さて、そのあとに、
延、既善養士卒、勇猛過人、又性矜高、當時皆避下之。唯楊儀不假借延、延以爲至忿、有如水火。
とあります。すなわち
“魏延は士卒をよく養成し、人なみはずれた勇猛さをもっているうえに、誇り高い性格だったから、当時人々は皆彼を避け、へり下っていた。ただ楊儀だけは魏延に対して容赦をしなかったので、魏延は大いに怒りを抱いており、ちょうど水と火のようにあい容れなかった。”
ということです。魏延の性格は敵を作り易い性格だったでしょう。本人の思う以上に潜在的敵だらけだったのかも知れません。
そしてここに楊儀という明らかな政敵がいたのです。楊儀は文官でしたが、計画をたてて部隊編成をし、軍糧の計算をしましたが考えあぐねることもなく短時間で処理したそうです。諸葛亮は楊儀の才幹と魏延の剛勇をたのみにしていたようです。だから二人の不和には困っていた訳です。

魏延と楊儀の反目は諸葛亮という重しのあったうちは、それでも火を噴かなかったのです。しかし諸葛亮は病に苦しみ死にかかっていました。二人が本気で争えばこの時代ならどちらかが命を落とすでしょう。魏延も楊儀も非常に危険な立場にあったと言えます。





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