2013年11月7日木曜日

三国志演義、三国志 蜀書 劉彭廖李劉魏楊伝第十 魏延(4)

魏延にもわずかな救いがあります。魏延を謀反人として誅殺したとはいうものの、私怨で殺したようにも見える楊儀が、結局その性格の故にみじめな最後を遂げるのです。

楊儀の考えていることは次の通りです。
「儀、既領軍還、又誅討延、自以爲功勳至大、宜當代亮秉政
井波さんの訳によれば
“楊儀は全軍を率いて帰還したうえに、魏延を誅殺したので、功績がきわめて大きいと思い込み、諸葛亮に代わって政治を行うのが当然だと考えた。”
となります。

ところがこれが大変な思い違いなのです。楊儀は誰もそう思ってくれるような人柄でないのです。諸葛亮の楊儀の評価は下の通りでした。
而亮、平生密指、以儀性狷狹、意在蔣琬。」
諸葛亮は平生からひそかに、楊儀は狷介偏狹な性格だから、蔣琬を後継者として考えていると語った。”
この訳文はすこし分かりにくいです。‘諸葛亮は平生から密かに、楊儀は性格に問題があり、後継者としては蔣琬を考えている、と語っていた。’ということなのでしょう。誰に話していたのでしょうね。

引き続いて
「琬、遂爲尚書令、益州刺史。儀至、拜爲中軍師、無所統領、從容而已。」
とあります。ここは井波さんの訳によれば
“かくて蔣琬が尚書令となり益州刺史に任じられ、楊儀が到着すると、中軍師に任じられたが、担当する職務はなく、手持無沙汰なだけであった。”

とにかく楊儀は窓際になってしまったのです。楊儀はもともとは蔣琬より上だったので不満たらたらで、
「又語禕曰「往者丞相亡沒之際、吾若舉軍以就魏氏、處世寧當落度如此邪。令人追悔不可復及」」
すなわち
“費禕に「さきごろ丞相がおなくなりなった際に、わしがもしも軍をあげて魏氏についていたならば、世にあってここまで落ち目になったはずがあろうか。あとの後悔先に立たずとなったわい。」といった。”

つまり、とんでもないことを高官(のちの宰相)である費禕に言ってしまうのです。このことばには、蜀の高官として高碌を食んでいる自分の立場のわきまえている様子はかけらもありません。自分の損得だけです。
そしてこの言葉が費禕により上奏され、楊儀は解任のうえ漢嘉郡に流されます。配所でさらに誹謗中傷の言を上書します。もう気が狂ってしまったとしか思えません。そこで郡に命が下され逮捕されます。彼は自殺します。正史では「儀自殺」とあるだけです。自殺を強制されたかどうかはわかりません。

楊儀は魏延が生きているうちはまだ用心し、他の人に気を使っていたのかも知れません。しかし、魏延を誅殺したところで思い上がりまったく地が出てしまって破滅してしまったのです。


逆にこんな男と対立した故に破滅した魏延も、悪いところがあったとはいえ多少は気の毒に見えます。





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